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日記を書きます

2024年06月25日(火)文章リズムは身体的

文章リズムは支配的

たとえばいま書いた文章の「次」に、新しい文章を配置するとき、「言い回しを選ぶ」ことくらいは、意識的におこなえる。選んでいる手応えがある。が、それと比べて、リズムは制御できない。そういった"流れ"は身体性や記憶によってほとんど強制的に形作られる、といった認識だ。言葉の背後に流れる音楽は、勝手にこの身の内から出てくる。淡々とした凶暴性があって抑制できない。

論理破綻の勘違い

論理が破綻しているというほどのおかしな文章ではない、いちおう意味は通っている、なにを言っているかわからないほどではあるまい、と自己判断(自己弁護)しながら、日々、文章を書いている。が、しかし、大きな勘違いをしていて、支離滅裂なことばかり言っている可能性も、なくはない。ときにそれがおそろしくなったりはする。

論理も、意味も、突き詰めると、人真似してきただけ、とは言えるので、ほんとうに真似できているのかあやしいし、真似してきた相手が適切だったかも、いまとなってはわからない。不適切な技術を見習ってしまった可能性はある。たくさんの書籍を読んできたけれど、それらを「見て」「憶えた」(と思いこんだ)"意味のあつかいかた"が、妥当なものだったのか、わからん、って思った。というか、確認しようがねえ~~~、って、ときどきなる。ビビり始める。

このあたりに関連した話でいうと、「数学」の安心感はヤバくて、素敵だ。「筋が通っている」の究極体だと思える。「数学」なり「論理学」なりをきっちり見直したりすれば、もうちょっと安心して「筋が通っているのか」という問いに向き合えたりするのかな~。たしかに「論理学」のテキストで見かけるような文章例であれば、安心して読めるところはある(つながりを感得しやすい)。が、その感覚を、日常会話なり日記なりに適用しようとしたときに、ほんとうに同じ形を持ってこれているのか、あらためて不安にはなる。ここがうまくできているかどうかの証明はやっぱり難しいし。

非論理人間でも気づけない

論理破綻に関しては、「言葉足らず」パターンと「そもそも繋がっていない(のに、気づけない・気づく能力がない)」パターンがあるんじゃないか、と想像している。だいたい前者だろうと楽観して生きてきたわけだが(やり直して、補うための説明をさせていただければ、伝わるものではあるんだろう、と決めつけてきていたが)、しっかり精査してみたときに、ぜんぶが後者だったときが、怖すぎる。論理のつながりに、気づけている・気づけていないのあいだの線の引きかたが、そもそもわからん。怖い。とはいえ、実は非論理・無論理の世界に生きていたとしても、気づきようはない。なんもできん、とは思った。