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日記を書きます

2024年06月26日(水)一気に最後まで書けない

まずは最後まで粗だししてみる

文章を書くときに、ちょっと書き出して、磨き上げて、ちょっと取り出して、また磨いて、というふうに繰り返すよりは、まず、精度が低くても、粗くてもよいから、とにかく最後まで出し切ってみて、それから、最終的な手直しを始める形にしたほうがよいよ、そのほうが効率的・効果的だぞ、といった指南は幾度となく耳にしてきた。ものすごく納得もしているのだが、なんか、この手法、うまく導入できていない。抵抗感がある。

「ちょっとずつの手直しを繰り返す」型で進めていると、最後の最後になって、あらためて全体的な収まりの悪さや噛み合わせの悪さに気づかされる羽目になり、そこでまた、大幅な手直しが必要になったりもする。だから、一度、ぜんぶ、始まりから終わりまでを形にしておいたがほうがよい。そうすることで、目的や方針の見直しもしやすくなる。途中経過のあいだもブレにくくなる。それに、全体像が具体的な形で頭の中に入ってくれていたほうが、余裕ができるおかげか、着想や論理だって、働きやすい。執筆活動のそれぞれの質が上がると言ってもよい。

ひとつひとつ「文」を頭から取り出して、正確性やなだらかさをチェックするより、どれもがよい行動に見える。しかも、「最後まで書き上げる」という力の訓練にもなる。よいことばかりじゃんとは感じる。

ただ、よいことばかりのように見える手法であっても、趣味や性格における「相性」がなくはないんだとは思う。誰にとってもかならずこのやりかたが妥当だ、なんて一律に言える事柄なんてない。非効率や非合理が予感されたとしても、あくまでそれは短期的・暫定的なものであって、長期的・総合的に見れば、「それ」が適している、性に合っている、といった状態はもちろんありうる。別に全体像なんて見たくない、という欲望を持ち主だって、ときにはいるだろう。見通しの悪さや先行きの悪さがもたらしてくれるようなモチベーションだって想定は可能だ。

というパターンも視野に入れながらも、「最初から最後までの全体像をまず粗出しし、最終段階で整える」という手法に、まだ、慣れることができていないだけ、なんじゃないかと感じるところはあって、変に納得せず、諦めずに、ある程度は試しておいたほうがよいんじゃないかな、と考えることは多い。性に合おうと合わなかろうと、手法として理解するくらいのことは、せめてしておきたい。「ぼくには合わないかもしれない理由」を、なかば言い訳じみた言葉づかいで挙げてはみたが、その理由が妥当だと見做せる根拠も特にない。ただ"まだ"できていないだけかもしれず、その可能性のほうが高いとも思う。不慣れというだけで無駄に倦厭しているフシはある。手をこまねいてる暇はなさそうかもねとは思った。