世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年02月21日(水)来歴と将来をうかがった日

様付け

奥様もお子さまも「様」付けで書くことが多い。いだいている敬愛などを踏まえるとそういう表記が妥当かなという判断ではあるのだけど、同じようなところでいえば、友達・友人らに対しても「友達様」「友人様」と言ってもよいんじゃないかとは感じる(友達/友人の違いはいまのところ言語化できていないが)。うーん、でも、どうなんだろうな~。実際のところ、あつかいは難しい。友達・友人というものは対等な関係性である、といった解釈もあったりするし、むろんその尺度もわかるし、たしかに様付けだと対等性が崩れることもあるに違いない。難しいというなら奥様やお子さまとにおける対等性の話も難しくはなりそうだが。

嫌いなまとめ

昔は「ひとぞれぞれ」が嫌いだった。というか、いまも嫌いかな。「難しい」「考えさせられる」あたりも同様である。「深い」「哲学的だ」も嫌い。だいたい似たような意味だが。あと実際は「嫌い」も嫌い。ここで書いたなかだと「難しい」「嫌い」はなんだかんだ使ってしまっているけど。

敬して遠ざけているように見せかけつつ、わからない・関係ないとはぐらかすように突き放す、といった手触りが苦手なんだとは思う。言わないようにもしている。ただ、こういう「言わないよう心がけている」的な自戒の話、考える時間も昔よりは減った。言う機会も減ってしまった。加齢にともない、少しずつだが、ルールを崩していっている印象が、まあある。ぼくだけ気にしてもしゃーなそう、と思うくらい、周囲から配慮の空気が消えた、というのが理由のひとつではあるかな。言わなくなったのと同じくらい聞かなくなった。なんとなくだが気にしていないように見える(気にしなくなったように見える)。うーん、これはぼくのせいだったりするんだろうか。するのかもしれない。類は友を呼ぶ的な責任というか原因はなくもなさそう。単なる加齢による一般的傾向かもしれないが。または、単に環境が変わったことによるのかもしれないが。

人生論

生きかたのルールの話を聞くのがとても好きだ。でも、聞かせてもらう機会は年々減っている印象だ。若いときのほうが聞けた。若いひとのほうが比較的語ってくれるんだと思う。基本的には先も長いわけだし、方針も考えるだろうし、語るひとも多いだろうとは思う。たとえば死にかけのタイミングで(説教の形でなく)生きかたを語ってくれるひとは少なそうである。だからこそ尋ねたい感じはあるが。若いひとと話す機会が減ってしまった影響も大きいのかな。まあそれもありそう。