世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年02月22日(木)周辺を整えた日

整理するまで思っちゃダメ

嫌いな理由をしっかり言語化してひとに説明できるまで「嫌いだ」とか思っちゃダメ(あるいは、言っちゃダメ)、と自分に対して思っていそうな気配はちょっとある。そして、同じような無茶なロジックで、職場のダメなところを区切ってひとつひとつリストアップできるまでは「不快だ」「ダメだ」とか言っちゃいけないみたいな観念も、そこそこいだいてしまっている。問題点が混線しているせいで、ひと言で難点を突きつけることができない状態、なのだから――指摘できないのだから、受け容れなくちゃいけない、なんてふうに感じていたりする。が、さすがにそれは、"言葉にできる"ことを特権化しすぎだろ、と思った。

責任の配分

相手のせいにしてよいのか自分の責任として受けとめたほうがよいのか問題。区切りかたや割合がほんとうに難しい。「相手側の難点」「自分側の難点」を、それぞれ、端的にピックアップし、それでいて責任の大小には触れることなく、ただシンプルに語ってみせる、というのが真っ当なやりかたなのかも、とは思わなくもない。加えて、いわゆる「上長・部下」という関係性の中では責任の配分はどんなところが妥当なのか、というところも(実際は・結局は)決めようがないしな~とも感じる。物事の関係者それぞれにどれくらい責任を割り振ってよいのかはずっと謎のままだ。誰なら決められるのかも(誰なら決められるだけの権限や能力を持つのかも)わからない。

たとえば今日も、上司のいらだちの気配が濃厚で、だいぶ動きづらかったが、しかし、ひとのいらだちなんて気にも留めず、萎縮もせず、淡々と業務を進めればよいじゃん、というか進めるべきじゃん、という考えかた(ツッコミ)も、もちろんありうる(というか、上司がほんとうにいらだっているかなんてそもそもわからないんだし。そしてまた、自分以外の人間の気持ちをコントロールしようとしたってそれこそ無駄なのだし)。話しかけづらいとか気にして後回しにするような振る舞いこそ、むしろ甘えだと言える場合だってあるんだと思う。実際そういうケースはある。程度問題ながら、「気にしないでやればよいのに」というアドバイスが真っ直ぐ通るケースも、たしかにあるんだろう。ただし、通らない場合も、同様にある。過激すぎる場合があるはずである。ここの線引きはほんとうに難しい。

あと、たとえ線引きできたとして、線引き手前までは自分の責任であり、線引きを超えたなら向こうの責任だ、という安直な決めかたをしてよいのかも、わからん。