世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年02月01日(木)さらなる発熱の日

熱が上がった

おとといから昨日にかけて高くなった体温が下がることはなく、むしろ朝になってさらに上昇したため、連絡して休みを取った。数日前のお子さまの発熱との関連も疑われるが確証はない。関連があったところでどうということもない。とはいえ症状は酷似していた。高熱を押して出勤する、といった振る舞いが昨今どういったあつかいなのか、けっこう謎だ。いろいろな事件や状況はあるわけで、這ってでも行かなければならない、くらいの緊急事態だって、時にはなくもないんだとは思う。だからって周囲に感染を拡げるほうがよほどアウトだからおとなしく静養せよ、っていう状況判断もまた、ありうる。それぞれを両極としたグラデーションがあるに違いない。しかし、グラデーション内の位置づけを定める条件がどんなふうに置かれているのかは、謎だ、とも思う。

酷似

場当たり的に話をつなげていくけど、「酷似」という単語がだいぶ好きだ。"酷く似ている"。強さや極端さを示すのに「ひどく」という言い回しを付与することはたしかにある。が、熟語として"くっつく"ところまでいった単語はあまり見かけない。酷寒、酷暑、酷薄、酷使、と類例ももちろんなくはない。でも、ほかの「大」や「強」、「極」などと比べたら多くはないだろう。それだけに印象的だなと感じる。残酷の「酷」だけあって、突き刺さるような痛みや苦しさの気配もまた、ただよう気がするし。別に突き刺さるところをあえて称揚したいわけでもないのだけれど、それくらいの鋭さ・勢いが切り拓いてくれるであろう「深刻さ」の境地は、たぶん好んでいる。

緊急時の選択肢も普段からフラットに

月末月初は休みづらいとか、この時期は休みづらいとか、なんとなく言ったり思ったりしているけれど、実際に今回のような高熱が出たら休むことにはなる。なら"休みづらさ"を気にすることに意味なんてないんじゃなかろうか、ということもたまには考える。緊急時にできるなら普段もできるはずだろ、といった目線を保持したい気持ちもある。たとえ、まわりの人々の意識や空気がそういった形でなくとも、たとえば「あくまで緊急時のために、"緊急時"というラベル付きの選択肢を用意しているのであって、いつでも"緊急時"と同じラインで動けるようにしておくのが当然、って言い切ってしまうのは、なんというか、また別の話だろ」というような認識が文化や常識としてはびこっているのだとしても、「それでも緊急時と、そうじゃないときを、フラットにしておきたい」「するのが当然だと思っておきたい」「あるいはそうじゃないとしても、緊急時かどうかを決めるのはこちらだ」「自分の身は自分しか守れない」といった前提は、踏まえておこうとは考える。胸中においておきたい。主張する、強行する、説得する、といったところまでいかないにしても、手の届くところには置いておきたいというか。