世界は称賛に値する

日記を書きます

2023年12月31日(日)まとめておきたい

大晦日

最終日。総括するための言葉を見せやすい日だ。大晦日っていう文脈は取りまとめに違和を覚えさせなくなるところが素敵だって印象がある。いろいろなひとの取りまとめが読めるところもよい。毎年楽しんでいる。いっぺんに差し出されすぎて読み切れん、ってなったりもしているけれど。

一年の素敵と不快

素敵なものも不快なものも、多数取り揃えられていた一年ではあった。仕事に関しては気落ちすることも多かった。極めて独善的に、ぼくのまわりのやつらがダメすぎるせいで消耗させられた一年だったぜ、とか言えてしまったらラクではあるのだが、妥当性のある根拠はうまく提示できないし、そんなふうに言ってよいのか自分でも正直わからない。精神的なトラブル、および、人間関係のトラブルの、責任の根拠を、誤謬なしに提示するのは、さすがに無謀だ。もちろん、ほんとうにそう言えるだけの状況だった可能性もある。とはいえ、都合よいほうに無意識に寄せてしまう面も当然あるはずで、判定が難しい。ぼくの能力不足や努力不足が問題だったと解釈することもできるし、この環境でなら結果が出せなくてもしかたないと解釈することもできる。ただそれは単に「両極」であって、ほんとうはそのあいだに、妥当な位置があるんだろう。可能ならその位置を見極めたいが、しかし、決定づける根拠はない。ほんとうに難しい問題だなと思う。

とはいえ、いったい誰がぼくの人生をわざわざしっかり見つめてくれて判定までしてくれるというのか、というツッコミはある。というか踏まえておくべきなんだろう。つまり、判定を待っていてもしかたがない。また、判定するにしても上司やらなにやら"偉い"人が判定しているからってそれを素朴に受け容れればよいのか、って問題だってある。正しい答えは誰にも出せない。結果として、信じたいように信じるしかないところはどうしたってあるんだと思う。こういった答えのない問題に対して無責任で都合のよい助言が欲しくなる瞬間があるので、占い師やキャバクラの言葉が称揚されたりもするのかな、とは連想した(噂話の範囲だが)。

「能力も努力もじゅうぶんな人間であったら、いまのぼくの環境であっても、きっと上手くやってみせたんだろう」、といった嫉妬的な想像が、邪魔をしているというか、気落ちに繋がっているところはあるな、と、あらためて考えていて気づいた。言ってしまえば「ぼくはもっとやれる人間だったはず」「やれないじぶんを受け容れられない」関連の問題だ。ちょこちょこ噂には聞いていた"自意識や虚栄心によってもたらされるトラブル"だけど、実際に遭遇すると、なんか意外だ。気づきづらい。そしてめっぽうコントロールが難しい。ここを諦められるなら、というか、丁寧に受けとめられるなら、解釈が新しいほうに向かってくれたりもするんだろう。攻めるならここからかな。