世界は称賛に値する

日記を書きます

連結する十一日、金曜日

公言

凄い、素敵だ、面白い、嬉しい、好きだ、と思って、公言する。世に響く感じで言葉にできる。インターネットによってやりやすくなったことの一つだろう。わりとずっと、このあたりを軸足にはしている。あなたの抱える、凄い、素敵だ、面白い、嬉しい、ありがたい、好きだ、を教えていただけたら助かります、とも思っている。ほんとうにずっとこれは言っている。もう完全に癖だ。

気づかされる

意味や価値は解釈して受動する者がいないと発生しない、という考えかたがあって、確かにそうだと思ったり実はそうじゃないだろと思ったりもするけれど(最近読んでいる『哲学入門』戸田山和久が「意味や価値といったものを心の外側に位置づけようとしている本」なのでなおさら)、意味や価値をどう位置づるか問題は置いておくにしても、なんにせよ、解釈者の推薦によって発生できた何か、を見かけることはある。誰かの考えに気づかされて感じる何かが時々ある。そこにあるよ、って指さしてくれないと気づけなかったことがある。それが嫌いだ(そうじゃない状態が好きだ)(なのでできるだけ公言して欲しい、といった思考)。

マイナーな気持ちも言う

インターネット時代になって、発言しやすい時代になって、公やら人やらが身近になって、それぞれが好きなことをばんばん言い放っているけれど、まだまだ凄いものすべてを褒め称えられてはいないじゃん、とは思っている。特に、すごく個人的な「よい」に対しては、まだまだ、凄い、素敵だ、面白い、好きだ、って言う余地が残ってるんじゃないのー、と感じている。発言が足りてないぞと思う。無論、つまんない話にはなりがちだ。需要は非常に少なめだろう。だって知らんもんね。知ったことでもないもんね。ぼくの身の回りの細やかな凄さなんて。でも、だからってそういったものを褒め称える言葉なんてなくていい、という判断は、好ましくない。需要の問題で決められてもな、とも思う。いや需要の問題として見つめる目線も好きと言えば好きと言えるけれど……。誰も聞きたいと思ってることではなくても、言いたい気持ちのほうを優先させて、言えばよいし、言ってもいいじゃん、という理路もまた考える。至極マイナーな気持ちについても言いたいように言える、という環境が、なんだか好き、という話だ。逆にメジャーすぎるものだからこそ、あらためて着目することがマイナー、ってノリも楽しいし。

とりあえず

よいねと言うだけ言う。言っておける空間がある。言いやすい立脚点がある。それらが積み重なる日記が好きだ。

事情

動機の話をすごいするじゃん、ってなってきた。文脈を、つまり事情を、知ってもらえれば許される、(許されるなら)正当化できる、的な思考回路があるな。という指摘、正当化をややもすると良くないものとして描く意識が出た結果だけど、それはそれで駄目なやつだぞ、って思った。正当化したくなる、正当化する、って別に、悪い精神や行動ではない。快楽の薫りが強すぎて無意識にいろいろなものを誤魔化して近づいてしまうケースがある、ので、取扱注意だとは思いつつだけど。それはそれとして、事情ばかり書くのはやめてもよい。文脈に気を取られ過ぎて書けないことが多くなってしまっている気はする。巻き戻しすぎて当初のところにたどりつく前に力尽きている感じ。あと、シンプルに文字数が増えてきつくなってしまっている感じ。