世界は称賛に値する

日記を書きます

2023年10月22日(日)風景描写と、公園の砂の手触り

真剣な風景描写

襟を正して、真剣かつ真摯に、空や雲、光、空気や気温と向き合い、そこに似つかわしい言葉を模索する。それすら真面目にやっていないなと思った("それすら"という言い回しが適切かはあやしいが)。最近はいうなれば不真面目さが気になる。真剣でもなく真摯でもない手抜き精神が、物事に対し徹底しないでよいと諦める甘さが、気になるというか。どこか逃げている。どこかスカしている。なんだかんだずっとそうだ。誰しもそうだろうという予断を持つことで謎の安心を持って過ごしていたけど実はそうでない可能性もけっこうあるのでは、と、たまに気づく。しかしそこからも目を背けている感があった。

まあこういうふうに書いたところで別に直らないだろう。過剰な期待はしていない。ただ、まったく効果がないわけでもないのかなとも最近は感じている。ほんのわずかなら矯正してくれる効果がありそう、って気もしている。書いたところでいうほど直らないけどだからといって書かないでいいやと言えるほどでもないというか。言語化すればなんとかなるとまでは言えないけれど、言語化しないのと言語化するんじゃ、おおきな違いがあるよみたいだ、といった認識の昨今である。始まりの風景描写がとてもきれいな日記を読ませてもらったため、こんなふうに書いてみたい、と思ったのがこの文章の発端ではあった。素敵なスケッチみたいな軽やかで緻密な風景描写を見て、こんな言葉の使いかたもあったなあ、って、なぜか思い出すようにして感じた。最近、なんか、忘れていたところだったらしい。

砂場

近場の団地のまわりにほどよい公園があるのを発見したので、お子様を連れて遊びに行った。砂利をつかんで遊んでいた。砂の感触で楽しもうとする光景が懐かしくてびっくりした。遊具じゃ自分も砂場が一番好きだった。水路を作って水を流すのが好きだった。シンプルに穴を掘るのも好きだった。そのあたりの光景が脳裡に蘇った。お子様は初の滑り台に挑んでいた。おっかなびっくり顔だった。