世界は称賛に値する

日記を書きます

新鮮風景・捏造風景

▼▼普段とは違う環境のもとで勉強をするのはよい、という。環境の違い(目新しさ)まで一緒に記憶されて思い出しやすくなる、というような効果があるようだ。勉強内容が外界情報とセットになってエピソード記憶化してくれる、という形状だろう。記憶には意味記憶とエピソード記憶があって、後者のほうが記憶として強靱だと言われている。意味記憶は辞書的なやつで、エピソード記憶は、思い出のあの光景、のようなやつだ。
▼▼風景情報のようなものを思考日記に混ぜておくと同じようなことができるんじゃないか、というようなことを考えていて、同じ話だろう、って思った。具体的な風景に乗せることで抽象的な話もエピソード記憶化してくれるのでは、っていう期待だ。数日前に書いた「時候の挨拶って大切なのでは」って話もこの付近から閃いた切り口である。
▼▼感覚というか感傷というか情緒というか、具体的な世界の雰囲気を織り交ぜることでよい文章になりがち、なりうる、というようなことがあるとして、目新しい、普段とは異なる、環境、であればあるほどよい、ということも踏まえるなら、思い起こさせる具体的な風景イメージ、は、毎回変えたほうがよい気はする。創作も辞さない様々な風景描写を織り交ぜてもよいような気持ちは持てる。が、それをちょっと嫌がる気持ちもあって、実際にじぶんが見ているものだけを、せめて書きたい、みたいな気持ちがあって、これなんなんだろ、って思った。思って、うーん、あとで読み返した時に、なんか海が綺麗とかどうとか書いてあるけどこの日海とか行ったっけなー、覚えてないなー、って混乱しそうなことを嫌がってる、のかな、って思いついた。ほんとうに記録として残しているところがあるので嘘があると勘違いしちゃって困る、と思っているようなのだった。
▼▼対抗馬として、いやそんな事実ばかりちゃんと残したいと考えてるならわざわざこういう形態で書くなよ、っていう反論と、嘘ついてもそれはそれでたぶん覚えてるでしょ、というのと、過去が嘘になろうが別に関係なくない? 実際の事実さえ忘れちゃって消え去ってるものが沢山あるんだし、海行ったかどうかはっきりしなくなったところでそれがなんなの? 確実なる過去の記憶、がそんなに大事? という反論と、まあでもそれでもどうしても嫌なら嘘は書かないでやれば? それくらいのやりくり、やろうと思えばどうせできるんだろうし、むしろその制約がよいほうに働くかもよ、なんてことを思った。
▼▼ほんとうにあった思い出を何かに残せれば嬉しい、という感覚、あるいは、ほんとうにあった思い出という観念、かー。でも、好きな気はする。このあたりをちょっと大切に思ってしまってるからこそ言えている言葉というのもありそうな気はする。って書いてることが変な正当性を生んじゃってて躰を停滞させているところもありそうだけどね……。まあそういうのが沢山あってやりくりしていくわけで、みたいなのも思うし。ばばばばばとこのあたりまで言葉を紡いできたけど、なんかこう、ここが駄目かなー、でも悪いことばかりじゃないよなー、どうしようかなー、というぜんぜん先に進まない紆余曲折を高速で言葉にしていくの、気持ちよいし、意外と、のちのちの変化に繋がりそうな、なんだかんだで第一歩になってるような、気持ち、あるなあ。がちゃがちゃ書いてるとほかに目を向けられなくなるので結局集中できてて深いところまで降りることができていたりして変化のキモまで手が届いちゃったりしてる、というようなことが起きていそうな気がした。