世界は称賛に値する

日記を書きます

火曜日の始まり

▼▼最近は思考記録ばかり描いてるなーって印象が強い。ので、光景描写とか風景描写もしたいな、って同時に考えることも多い。世界を描写しましょうよ、って繰り返し考えてしまっているとは思う。なんて頻繁に思っているわりには、描写文を書いてなくて──書けてなくて、繰り返し胸中に浮かばせている「欲求的な想い」は結局どこに繋がるんだろう、と思ったりもしている。無意味って言葉は嫌いだしなー。思っているだけでも何かがあるとよいね、って考えがちだ。▼▼というかあるだろ?って思った。思っていただけだと思っていたら結局最後には実際的な「何か」に繋がってくれたりする、っていう、経験談も経験則も普通にあるじゃん、って思った。ので、言葉に酔ってるなよなあ、と思い直した。思ってるだけじゃ何も始まらないのだ、とか、理解者ヅラ浮かべて言ってみせるのは簡単だけど、思ってるだけかと思いきや何となく何かに繋がって結果として思ってるだけじゃなくなることだってある。運任せで運頼りな話にはなっていくにせよ、無意味って言葉で排除してしまえるほど、稀有とかツマラナイとかではないよなー、って思う。
▼▼思考記録を風景描写みたく書くと楽しいよねえ、なんて言ってみせて、比喩を拡げる思考がやっぱり好きだな、とは別の話として思った。比喩による拡大って構造が好きすぎて──癖になりすぎてて、惰性と形骸と陳腐に貶めていそうなところは、怖い、ところは確実にあるかなー。けど、好きは好きなので、まあ「好きすぎる」おかげでこうして語れているところだってあるので、巧く対処しておこうとは思っている。
▼▼起床時刻は不明瞭で、勤務は休みである。面会に行く予定がある。

相変わらず読ませていただいていて幸せ、の記録です。忘れたくない型インデックス。

→ 「『ぷりるん』を読み終わった日は、この本のことしか頭に浮かばない一日を過ごす羽目になりました。すっごく胃にこたえる読後感。でも気持ちイイんですよね。なんだこりゃー」

→ 「まず,全体的に・「そんな事は分かっている」・「なるほどと思った.でも無理」と言うレスが多すぎるように感じます.こう返されると,意見を述べた側はもはやそれ以上何も言う事ができなくなります.元増田は,「なんかまじめに書くのがアホらしくなってきた…」と言う感想を抱いたそうですが,上記のようなレスの多さを見た多くの(意見を述べた)人達は「なんかまじめに相手するのがアホらしくなってきた…」と感じたかもしれません」

→ 「シムシティーは絶対の方法論も近道もない。今目の前にある街にいちばん必要なことはなにか、プレイするたびにそれを考えていかなければならないんだ。その中で、要素と要素や階層と階層の関係を越えて、街っていう大きなシステムの仕組みがおぼろげに見えてくるようだったら、僕がこのソフトを作った目的も達成されたってことになるわけだ」

→ 「まあ神連呼するタイプのひとは、あんま細かく自分の言語運用を説明してくれないので、想像だけど。仮に考えていなかったとしても、というかあまり考えていないのにも関わらず表出する差異だからこそ、それが重要だという気がする」

→ 「あと、現在に沿えば沿うほど、文脈に再組み込みされづらくなる(その時その場に対してのみ意味があるものは、まともらしい引用を不可能にする)。そいうものこそが、上等の証だと思っているが、どうも近年はそのての上等さをよしとはしないようだ。古い言い方だと貴族からエリートへ、みたいな変化なのかもしれない」

→ 「「他人が幸福になるのが許せん」というのは「他人の痛みを我がことのように感じる」の背面で、共感能力の強化というより自己像の拡大(というか「自分いっこぶん」という範囲認識が自分ひとりでなくコミュニティと溶け合っている的な)という背景を共有していると思うんだが、ひとに他人の痛みはわからんので元々欺瞞だ。だが場合によってそれが、やさしい嘘というやつなのかもしれない」