世界は称賛に値する

日記を書きます

2023年10月18日(水)訂正と、詩

訂正可能性

『訂正する力』(東浩紀/朝日新書)を買った。同著者の新刊『訂正可能性の哲学』(東浩紀/ゲンロン)も少し前に買った。刊行された順に、『訂正可能性の哲学』から読んでいこうと思っていたのだが、『訂正する力』が手元にあって読み始めたら、非常にするする読めるにもかかわらず極めて楽しい話の拡がりが見られて、読書する手が止まらなくなった(比喩)。

複雑で難解な、耳慣れない最新鋭の概念というわけではなく、意外と身近なところにある、時代を反映してみせるような、それでいて深掘りの足場・基点になってくれるだけの、実は的確で鋭い概念、というものがときにある。そういったものへの予感を哲学・文学・批評などが叶えてくれることがあるなと思う。だから好きだ。そして、祈りというか救いというか、突破口の糸口ようなものが、もしかしたら、そこにひとつ、あるのかもしれない、と考えたりもする。今回はその光が「訂正」に向けられていて、楽しかった。

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詩の理解

短歌や俳句がなかなかしっかり理解できず悔しい日々を送っている。詩あるいは詩歌もぜんぜんダメである(短歌・俳句も詩の一種のはずなので順番が変だがとりあえず)。歌詞くらいがぎりぎり理解できている範囲だろう。しかし歌詞がほんとうに理解できているかも謎だ。なんにせよもう少し理解できたら嬉しい。あんなにも楽しそうなのにぜんぜんすとんと落ちてくるものがない。哀しい。別に無理に理解しなくてもいいんだよ、と、こういうときには言われたりするが、楽しそう⇒でもぜんぜんわからない⇒しかし楽しそう⇒ずるい、といったループには、やっぱりハマる。楽しそうに遊んでいるのを見ると羨ましくなるというか。無理してとかじゃなく素直に理解したいのだ。むしろ近づかせてくださいよという願いなのだ。楽しそうにしてるのずるいぞ混ぜろという動機はちょっとあれかもしれないけれど。

まわりをうろうろしているうちに見えてくるものもあるので、それでなんとかならないかな、とは思ってはいる。それくらいしかしてないから理解に結びつかないんじゃないのという説もある。

詩を教えている人物が出した本をぱらぱらと眺めた。非常に楽しかった。詩を学びたいなとも思い直した。学ぶというかそもそもあんまり"詩"そのものに触れていないことが問題なんじゃないの?とも思った。素直に考えたら詩集を読むところから始めるべきなだろうというツッコミだ。ごもっともな気もする。

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