世界は称賛に値する

日記を書きます

目的シンプルプランの5/20土

『目的への抵抗』國分浩一郎(新潮新書)

自由は目的を超える――。『暇と退屈の倫理学』の議論がより深化、危機の時代に哲学の役割を問う!

自由は目的に抵抗する。そこにこそ人間の自由がある。にもかかわらず我々は「目的」に縛られ、大切なものを見失いつつあるのではないか――。コロナ危機以降の世界に対して覚えた違和感、その正体に哲学者が迫る。ソクラテスやアガンベン、アーレントらの議論をふまえ、消費と贅沢、自由と目的、行政権力と民主主義の相克などを考察、現代社会における哲学の役割を問う。名著『暇と退屈の倫理学』をより深化させた革新的論考。

おとといの木曜日、帰りがけに『目的への抵抗 シリーズ哲学対話』を買って、読書中だ。書店でなんとなく見かけたものを買う流れは最近だとやや珍しい。置き場の問題から電子書籍で買ってしまいがちだ。著者の本は『暇と退屈の倫理学』が図抜けて素晴らしかったので、その後も、新著を毎回楽しみにしている。

bookmeter.com

人間にとって、いま、「目的」という概念が自明になりすぎている(のではないか)、ということが今回の議論の切り口になっていて、たいへん素敵なところを切っていくなあ、と衝撃をうけた。たしかになんでもかんでも「目的」の話に収束させていく、と思わされるところはある。人生も、仕事も、趣味も、家族も、思想も、なんについての語りや論争をしようとしても、「目的」ってことばは間違いなくかかわってくる。無視できない重さをもって身を寄せてくる。無視しようとしても無視できない。その「目的」性に彩られた現代的なぼくら人類の意識や知性を、なんとか混ぜっ返そうとしてくれる一冊、といった感じだ。たいへん貴重で素晴らしい混ぜっ返しだと思った。

いま、その概念なしでは、意識、認識、思考、感受できなくなっている、というようなプロセスに切り込んで、古くから一緒に作動してきたせいでなかば融和していて一体化すらてしまっているような根源的パーツに対し、「ほんとうにこれ、なくせないのか?」って問い直す行為、たいへん、好きだ。問うひとを尊敬もするし、問うこと自体も楽しそうで胸が踊る。そこにこそ幸せがあるのではないかとすら思う。といった感じで、おもしろそう!ってなって、買った。

土曜日

昨日の業務の中で、今後の目標や課題にかかわる対話があって、多少の前向きさといくらかの後ろ向きさを、新たにかかえる形となったかと思う。トータルだと状況はあまり変わっていないかな、って気もしているけれど、実際はたぶん、ちょっとだけ前向き要素が増えている。にもかかわらず「状況は変わらず」と思いたがってしまうのは、これまでのサンクコストというか、積み重なった恨みつらみによるものだろう。これまでに受けたダメージを考えたらそう簡単に気を許してなるものか、といった、慣性混じりの感情が残ってしまっているようだ。あとまあ、多少は前向きに思える要素が増えた、と、直後だからいまは感じられているかもしれないが、しかし、結局は、ただの錯覚かもしれない、あるいは詐欺かもしれない、という不安があるせいでもある。表面的にはどちらかといえば悪くなさそうな手捌きで話を聞かされたけど、実はあいかわらず嫌な内実なのかもしれない、という怖さは、わりとある。なので、まだ安心できない、まだ油断したくない、いくらか警戒心は残しておきたい、というような状態といえる。うーん、懐疑的な視点が多くて嫌な話だなとも思う。まああくまで昨日の話であって、今日の土曜日は休みだったのだけど、なんとなく、そんな空気が頭の中に残っていた。

せっかくの休みの日に仕事の話にかかわるものやその余韻の話を書くの、あんまりしたくないな~、って考えたりもした。が、こういう「せっかくの休み」みたいな概念も昔は好きじゃなかったのを思い出した。別に「休み」も「休みじゃない」もわざわざそんなふうにしっかり線引きしないといけないものなのか?と疑っていたからだ。脳内にそんなふうに「自明」なものとしてわざわざ置いておくような事柄なんだろうか?と訝っていたからだ。そして、こういう疑いが好きなんだよなあとあらためて思った。「目的」って概念を疑うくらい、「休み」とか「仕事」とか「趣味」とか「感情」とか「良し悪し」とかも疑っていきたい(そして、疑いつつも受け容れるものは受け容れて、活用もしていきたい)。嗜好としてはそういった言葉づかいがしたいんだよなとは思う。