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日記を書きます

2023年10月19日(木)必要最小限の文章と、日記の文章

ギリギリの日記

枠組みが決まっているような題材、たとえばマニュアルにおける手順の説明の文章なら、そこに書かれる文を限りなく削減していくことは可能だろう。理解の限界ぎりぎりを狙った最小限の文章量を想像することはできる。だが日記や日報でそれが可能かと言われると微妙だ。たとえ無理に「最小限」を狙ってみせたとしても、ほんとうに実現できるのかなと感じてしまう。削れたぞと思ったとしても、せっかくの気づき、拡がりや深まり、といったものが虚空に押しこめられただけで、なんというか、無駄を削っていったタイプの最小限とは異なる気がする。

最小限の単語量で作った端的な日記ってどういうものになるんだろうとあらためて考えた。"具体的な出来事を短く鋭く描写する"というだけならいちおうわかる。想像はできる状況だ。けれど、たとえそれが具体的な出来事であっても、「どこを切り取るか」「どこまで削れば最小限になるのか」なんて、実際には決められたものではない。正しい切り取り線なんてない。誰にとっても適切だといえる境界線なんてきっとない。単語ひとつを選び削っただけで背景・雰囲気・感覚が変動してしまうはずだし、それらが変われば流れそのものが変わるはずだし、文脈も変わる。そこまで変わって境界線が変わらないわけがない。

さらにいうなら、読み手側の有している意識や技術でも「最低限」を決める線引きが変わってくるはずである。どれくらいの情報量があれば読み取りが可能か、は、当然、ひとによって異なる。だから、そのひとにピントを合わせているためそのひとにとっては「最低限」の文章量だ、といった状態を目指すことは可能かもしれないが、逆から見るなら、そんなふうに最適な分量を目指せてしまうなら、万人向けの「最小限の文章」を目指すのはそもそも無理ということだ。背景や人物によって境界線が変動するなら、目指せるのは平均値や中央値や最頻値であって、一律の答えは出せない。いろんな量の文章をとにかくたくさん用意するという満願全席的な手口が別案としては立てられるけれど。

だからって無駄や贅肉、余剰、冗長なんてないということでもないが、とは考えた。一律の「最低限」は示せないにせよ、ぼくのとっての「最低限」は示せる。結局は自分の頭や胸に問いかけてみることにはなる。そしてそれでよいのかなとは思う。それくらいしかできないならそれくらいはしておこうという決めかたもある。いずれにしても、ここの文章(日記としての文章)においては、「最低限」なんてものは主観で決まる、気ままな、その場しのぎの"決めごと"に過ぎないんだぞ、ということは踏まえておきたくなった。それを踏まえたうえで、削るのは、ありだと思うし。