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日記を書きます

20230824 記念の話

記念

「記念日」や「祝い事」という概念の背後にはカレンダーがあるなと思った。"暦"がなかったら記念することも祝うこともできなさそうである。年・月・日といった時の区切りを活かして、「同じ時がここに再びやってくる」と思える感じで認識できているからこそ、「記念」や「祝い」が成立しているようには見える。

記念時

記念日ということばは自然だろう。が、記念月ということばを見るのは稀だ。ときどきは使われることもあるんだなといま調べて認識したくらいである。記念週、記念時はほぼ見ない。記念年、記念分、記念秒に到っては、思考に登場させることすら不可能そうと思ってしまう。

特に「記念年」を考えた場合は、繰り返さないため、成立させようがないじゃんって思える。とりあえず西暦は通り過ぎるだけで"同じ年"はやってこないし。和暦なら、というか、年号なら、いちおう運用は可能なはずだけど、実際にそういう運用を見たことはない。新しい年号になるたびにその18年目を記念として祝いましょうよ~とは誰も言わない(新年号ごとに18年目まで到達するかも不明だ)。

記念日の背後には、「月間31日のうちの特定の日」ではなく「年間365日のうちの特定の日」があるわけだが、記念日の運用に使われる背景のうち、なぜ"年間"が特別扱いされているのかも、謎だ(いや、"年間"という区切りが大発見だったことは間違いないと思うので、その衝撃の余波なのかなとは思うけれど……。なんか365日くらいで一周してるじゃん!と気づいた人類は凄い)。

ちなみに、「月間31日のうちの特定の日」の場合は、いわゆる「毎月10日がキャンペーンデーです!」みたいなものが該当するんだろう。ただ、「記念日」とは呼びにくい印象になるかな。さらに変質的なやつだと「5のつく日キャンペーンデー」といった区切りも想定される。

「記念時」(例えば「毎日14時をお祝いの時間としましょう」)が成立させられなさそうなのは、なんというか、心理的な問題だ。毎日毎日同じ時間にお祝いしていたらきっと飽きる。祝う気分ではなくなるだろう。それなりの距離、幅、空白、「ひさしぶり」らしさがないと、祝いという"ハレ"の空間を現出させられないのかなとは思った。記念も祝いも日常化したらおしまいだ。というか、日常から離れるためのあえて区切っているのに台無しだ。「ひさしぶり」と思えなければ、意味がなくて続かない。盛りあがらない。そういう意味でいえば、「記念時」がないのは、人間の能力のせいなのだと思う。人間がどれくらいたてば「ひさしぶり」と思えるかに左右されている。だいたい365日くらいたつと「ひさしぶり」と思いやすくなってくるんだろうとも言える。

記念日がその背景として「月間ベース」ではなく「年間ベース」を(なぜか)採用しているように、もし記念時を設定する場合においても、わざわざ「日間ベース」にする必要はないはずだよな~、とも思った。「年間ベース」を採用して、一年のうちのある一日のある時刻だけを記念時として設定することは、別にあったってよい。実際、特定の日の特定の時刻に黙祷を捧げるようなおこないはあるから、それがそういうものだろう。

記念の木曜日

祝い事のある木曜日だった。「記念」という言葉を丁寧に見つめたことがなかったため意識した。意味合いとしては「念に記す」でよさそうだ。「あることをいつまでも心に留めて忘れないこと」という説明も見かけた。なるほどね。記念碑的なイメージがむしろ適切になってくるのかな。「その日のことを心に刻む」「忘れないよう打ち立てる」といった形状だ。そういう視点で言えば、「記念日」という言葉には二つの側面があるんだな、とも思った。「記念碑」のような振り返りのためのものと、実際の「その日」だ。ある日の象徴とある日そのもの(その日にあったこと)。説明がうまくできていない気がするけど、たとえば誕生日において、「誕生日」を祝うか、「誕生」を祝うか、ふたつの目線があるよなあと思う。