基礎・根本を問い直す(適切・不適切なケース)
基礎や根本を問い直そうとするスタンスは勉強するにあたって適切だと言われたり不適切だと言われたりする。こんなふうに良し悪しが語られる場合は、要するにケースバイケース(一律の答えに縋りつかないで考え続けましょうね〜)ということなんだとは思っているものの、「現時点の状態がどちらに該当するのか」迷うことは当然ある。判断がつきづらくて困ることはある。
とりあえず、通り一遍の「みんなに言われていそうなこと」「アラの目立つ意見」「ありがちな指針」ばっかり見て話したり考えたりしていて、要するに"基礎・根本を問い直さない"ままにしていると、そのうち行き詰まる印象だ。最初の足場の組みかたが雑だと、理解が緻密になっていけばいくほど、いずれ自重に耐えきれず崩壊するイメージというかな~。なんて、初動の想起で書いてみたけど、この「初手での足場がスカスカだと、そのうち、重さに耐えきれなくなるので、定義や前提をはっきりさせておくことで、足場を固めておきましょう」という指針が、そもそも"ふわっとした"話なんじゃないかって気はしてきたけど……。曖昧な指針だしありがちなイメージだとは感じる。
発生の経緯や、そもそも論、べき論、優先順位や例外処理、そういった周辺情報を集めることで外堀を固めると、学びの染み渡りかたが変わる。広く深く浸透し、きめ細やかな理解が生まれるようになる。結果として、取り扱い時の負荷が減り、判定が微妙なときの成功率も上がる。当てはめられるシチュエーションが増えて応用力も高まる。みたいな形がよい働きをしたパターンだろう。土台を固めようとしてよかったケースだ。
逆は、わからなくて頭も手も止まってしまい、そんなところでぼーっとしているなら演習問題の一問でも解いたらどう? "考えかた"を身体に憶えさせたほうがよいんじゃないの、とツッコまれるようなパターンだ。実践できるようになる、動けるようになる、慣れる、反射的に対応できる、といったところを狙いたいときに発生する感じ。こちらが悪く働いたパターンになるのかなと思う。土台を固めようとしたことが不適切だったケースである。
なにやら種類やレイヤーの異なるふたつの性質であって、真っ正面からこのふたつを対比するのはなんか違うんではないの、とは書いているうちに思えてきた。むしろ両立すらできそうである。
教科によって異なる、というのはありそうである。国語の土台を固めるのと数学の土台を固めるのはぜんぜん違う。社会や理科も同様だろう。「定義が明確なものについての学び」と、「みんなの使いかたがバラバラなものについての学び」で、やりかたもかなり変わってきそう。一緒くたには語れなさそうだ。
足し算の背後にある理屈を深いところまでわかっていなくても、「足し算ができるようにする」「足し算を説明できるようにする」「足し算を比喩として扱えるレベルに達する」といったことは、まあできそうだ。このあたりを「あえて基礎を固めようとしなくてもよい」ときの例にできるかな~とは考えてみた。が、もちろん、足し算の背後にある証明を理解したら、それはそれで、その後の勉強の役には立つだろう。基礎をしっかり固めておくとよいよという例にも使えると思う。それが効果的になることもあるはずである(足し算の証明ってけっこう大変ではあると思うけど)。なので、この足し算の例はあんまりよくなかった気もする。
学ぶ対象によって、考えやすさとか、調べやすさとか、どのあたりが世の中で要されているのか、どの範囲まで社会に知られているのか、根っこまで知ったときのインパクト、奥深さ、などが違うんだろう。そのため、どのやりかたが最適とは一概に言えない。対象に合わせた装備とスタンスを用意する必要がある。といったところなのかな。
ここまでの文章の混乱
前述の文章(↑)の混乱がなかなか酷いなってなってきた。一度撤退して整理したほうがよさそう。そもそも対比させようとしたものがズレていて実は同じレイヤーにないものを比べてしまっている?というのと、具体例を考えるときに適切なものを思い出せず結果としてそこでも想像をミスしてしまっているため混乱が修正できていない?といった問題が重なった結果っぽくは見える。こういう例も珍しい(珍しくもないか。書いているうちに解消できる日もあるというだけ)のでまた考えるように残しておこう。
「用語の意味や作業の意味を理解しないで言われたやりかたをなぞっているだけ」と「用語や目的を調べて理解しているので理解度が高い」場合の比較に、「悩んでいるくらいなら身体を動かしたほうがよい」というちょっとレイヤー違いの話を混ぜたところがダメっぽい。そこに足し算の例を混ぜたので余計にわけわからなくなった感じだ。現時点での駄目出し。