世界は称賛に値する

日記を書きます

7/21(金) 油断の交錯を意識する

食べ会

トングが行き交う軌跡も妙な光景で楽しかった。勤務を終えたあとに飲み会。とはいえ飲酒するひとは少なめだった。なので食事会が妥当な呼びかただったと思う。食べ会という言いかたにはならないんだなとは考える。ひとと詮無いことを話したり酒を飲んだり肉を食んだりすること自体が最近だと稀だった。晴れの場というほどではないが背景の明度が上がったような心持ちにはなった。

不満の話もします

不満を露見させるタイプの話題も出た。ぼくとしては同意見なところもあったので、一緒に不満を発散する共感的な意識で話を聞けたのだけど、そうでなかったひともいたかと思う。同意できないひとも、同意はできるにせよ楽しい場でわざわざ言及しなくてよいと思うひとも、いたんじゃなかろうか。このあたりの分水嶺や優先順位は難しい。

嫌なことを「現状に嫌なところがある」「こういうところがつらく感じる」とひとに言える舞台はできるだけあってほしい派だ。例えば誰かふたりが類似した不満を持っているときに、交流の場がなく、それぞれが個別に陰鬱な気分を秘め続けるくらいなら、ふたりでそれを一緒に祭り上げて管でも巻いていてくれと感じる。それが"繋がる"可能性はなくさないでほしい。けどだからといって、同意できないひとを巻き込んで「ツマラン話だ」と思わせたいわけでもないんだよな~。話題の調節は難しい。理想的な行動の話と、理想的な環境の話を、両立させるやりとりをおこなうのも(互いにシビアな調整を要するところもあって)難しい。

あなたに無関係なツマラナイ話をしちゃってスイマセン、なんていうふうに独りよがりの遠慮を押しつけるのも、それはそれで無礼なんだろうしな~とは考える。全面的にダメという気はしない。が、その側面は気になる。

なにも押しつけません、こちらが勝手に選別した"あなたに害のないであろうこと"しか見せる気はありません、なにがあなたに合うものかはこちらで選びます、そして我慢はこちらだけがします、要するに対等に交流する気はありません、あなたとぼくは別のものです、といった距離を遠ざけるスタンスは、たぶん、理想的ではない。ときどきそういうものが混じることはあるにせよ主軸にはぜんぜんしたくない。ただ、それが悪いという話でもないんだよな~。それがキモになったりスパイスになったりはするんだろう。そこが難しい。「つまんない話だってしてくれてよい、そのぶん、ってことでもないけど、ぼくもつまんない話をするし。おのおの配慮しつつも決めつけずに勝手にやりましょう。それでダメならダメで訣別でも聞き流しでも再解釈でも、なんかしらしましょう」と、そういった線の引きかたで、まあいいんじゃないの、的な光景を基準にしておきたいなとも思った。