世界は称賛に値する

日記を書きます

凝視のコバルト2/27月

文章表現400字からのレッスン

目の前のものをしっかり見つめ、丁寧に描写する。”観察”は十人十色だ。ほかのひとと同じ”観察”にはならない。そして、そこから文章表現というものが始まるのだと思う。厳密には、ほかにも文章表現が始まる地平はあると思うのだけど、ここに、そのひとつがあるのだと思う。

ぼくがとても好きな本のひとつに、梅田卓夫『文章表現 四〇〇字からのレッスン』がある。ちくま学芸文庫から刊行されている文章の書きかたについての本だ。この本から、前述のような学びを得たと思っている。観察の大切さを理解し、意識するようになった。できるだけ意識するようにはしている。が、見失うことも多い。疲れるからだろう。可能な限り見つめて、見合うだけの言葉を選ぶのって、ほんとうに大変だ。意識や思考のリソースがごっそり削がれる。だからこそ無意識に避けてしまっていることがあって、サボリを自覚させられることもある。最近もちょっと気づいて、反省した。

身体性にフォーカスするのが重要なんだろうな~、とは考えている。観察もつまりは視覚の話であり、身体性の話だ。「物理的なからだ」を立脚点にすることによってこそ、十人十色の言葉が書けるようになるんじゃなかろうか、という視点である。個性、独自性、といったものに繋がる重要な道のひとつが身体性というものの中にあるのではないか、という視点でもある。物理的なからだが見せる「個別性」は非常に強力なので、それを活かして言葉を書く、という切り口が、かなり効果的なんだと思っているのであった。

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レトリック感覚

極端に単純化して言うなら、国語辞典には、私たち日本人が、世代をかさね、地域を越えて共有化してきた、標準的なものの見かたを表現するためのことばの部分品―—単語――が収録されている。それゆえ、常識的なものごとを表現するためには、それらの単語を常識的に組み合わせ、つないで文をつくればよい。言いかえれば、共有化されていない、標準化されていない認識を言いあらわす既製のことばは辞書にはのっていない、ということでもある。ゆうべ、あなたひとり《だけ》が、たった一回《しか》体験しなかったことがらには、名前がついていない。

佐藤信夫『レトリック感覚』もいま並行して読んでいて、直喩に関する章で出てきた「一回性」も、観察や身体性に関わってくる概念なんだろうな~、と考えていた。標準や常識、共有によって支えられた「ことば」を超えてくるものと、出会い、それをなんとか「ことば」にしようとするときに、じぶんだけの文章表現が立ちあらわれてくる。観察という具体的な行為、身体という枷と個別性、が、ことばから離れよう離れようとしてくる中、直喩のような言語的工夫が、なんとかそれを、押さえこんでくれる。押さえこむだけの力になってくれる。というような構図だ。

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原子番号27 コバルト(Co)

コバルト。コバルトブルーという単語が最も耳にするところかな。ケイ酸コバルトとして利用することでガラスなどがブルーになるようだ。妖精を意味するコーボルトが語源という話があって、ファンタジー世界で魔物や亜人として出てくるコボルトと関連しているのか、というのは驚きだった。錆びづらくて酸やアルカリにも侵食されにくい、ということで、コバルト合金は高級素材として利用されているようだ。コバルト爆弾という概念もあるようである。

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