世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年12月05日(木)抽象変換後の記憶ばかり

抽象的な型の記憶が癖になってるんじゃないの

具体的な出来事ってなにがあっただろう、と思い出そうして、うわ!ぜんぜん頭の中に残ってないぞ!と驚かされた経験が最近あったのだけど、よくよく考えてみると、手法とか、見かた、考えかた、概念、なんかは、けっこうちゃんと憶えられている気がしてきた。それなりに身についてはいるみたいだと気づけた。ときどき使いこなしてはいる。どういった抽象度で記憶するのが得意か、どれくらいの具体性が身体と紐づいているか、人と場合によって違う、ってだけの話なのかもしれないな、とは思った。

論点、仮説、逆算、ゼロベース、証明、演繹、帰納、止揚、直観、メタ認知、前提と結論、目的と手段、ストックとフロー、具体と抽象、分解と統合、楽観的と悲観的、積極的と消極的、倫理、数理、整合的、合目的的、批判的、ビジュアルシンカー、アウトライン、思考停止。いろいろな見かた・考えかたがあるんだな~、ということは、なんだかんだで学んできた。いろいろなところから眺めたり分析したりできるようにはなってきた。昔はぜんぜんこういった型ややりかたを習得できてはいなかった。こういうものが「身についてきた」こともまた、じゅうぶん、記憶や思い出の範疇として見做せるんだと思う。具体的な出来事をどれくらい憶えていますか?っていう問いのもとでのみ、記憶や思い出のことを考えすぎていたので、そればかりじゃないっぽいぞ、と反省はした。

一歩目の足ばっかり観察してしまう

文章の書き出し。最初の一歩目。そのとき踏み出した足先が、目端に入ってきた結果、あらためてそこが気になって、観察を始めてしまう。なんだっけこれ?って(みずから踏み出しておきながら)不思議に思いはじめる。こういうふうに「足先の観察」に終始してしまっていることが多いな~、とは思った。一歩目の時点で、自分でもよくわかっていない足、を、踏み出してしまっているんだと思う。