世界は称賛に値する

日記を書きます

主を謳いたがる12月16日金曜日

言葉の前提

人間がなにか言葉を発するとき。個人的な見解なのは当然のことなので「個人的には」なんて文言を書く必要はないし、主観であることだって前提なので「主観的には」なんて文言を書く必要もない。まったく要らん、というツッコミは時おり見かける。でも、誰かから聞いたことを(自分の意見とはまったく異なる見解を)話そうとする場面も、客観的な側面に(たくさんの眼差しの交差する点に)着目する場面も、やはりある。だから、わざわざ個人的/主観的と書くのであれば、その分、「そうでない」ことが強調されるんだろう。昨日書いた「と思った」をわざわざ書くかどうかの話についても同じだなと考えていた。「思った」なんて自明なんだからわざわざ書く必要ないでしょ、というツッコミがありうるのはわかる。けれど、前述したような構造で、書くことによって「そうでなさ」を強調することができるはずである。そういう使いかたは、いったんありうる(ので、根絶するほどのことではないなと思った)。

忘年会

勤務後、職場の忘年会に出かけた。足取りは比較的軽めだった。多少楽しみにはしていた。見慣れた顔ぶれが見せるいつもと異なる行動パターンは好きなほうだ。昨年よりは人数も関係値も増えて、話題の対角線の数が増えそうという期待があった(昨年は、新しく働き始めた職場で数ヶ月が経ったくらいのタイミングだったので、緊張もかなりあって、それが今年は落ち着いたなというのもあった)。楽しかったけど、想像を超えるほどの勢いではなかったかなあ。対角線の数も微増で終わった。そういえば、そもそも飲み会はひさしぶりだった。想像を超えるくらい楽しい飲み会って昔はたまにだけどあった。そういう場面が忘れられずに追い求めているところはありそうである。かつての夢中や没入を忘れられない精神型、たぶん基本的にはよくないやつなんだろうけど、こういうのも結局、言いかた次第というか言葉遊びに過ぎないというか、語順、および接続詞・助詞・副詞あたりの調整で、けっこう印象操作できたりするしなあ。どこを目立たせるかで変わる。駆除を誘うよりは活用や有効を誘う「目立たせ」も試してみてよい。