世界は称賛に値する

日記を書きます

7/23(日) 推量の薄味を意識する

かもしれない

「かもしれない」の見せる意味合いは薄味な印象だ。推量的な言葉はほかにも「だろう」「らしい」「と思う」「なのでは」「きっと」「たぶん」「おそらく」等々あるわけだけど、「かもしれない」は、ほんとうに、なんとなく、ただの選択肢を足すためだけに設置できそうだと思える。言い捨てにさえ使えるというか。こうなってほしい、こうならないでくれ、といった意志もまるでないままに置くことができる雰囲気かな。

「かもしれない」と「だろう」を比べると、「だろう」のほうが、意志や期待、あるいは嫌悪の匂いが濃い。濃いからよいというものでもないとは思うけど。

「かもしれない」によって選択肢を増やすことができる。見える範囲を拡げていく。枝葉を伸ばして意識の向いてなかったところに新たに目を向けさせる。その新たに拡がった地平がおもしろいものであれば、「かもしれない」は素敵な文言に思えるだろう。逆に、ごくごくありふれたなんの変哲もない物事に目を向けさせられたら、なんのためにわざわざ誘導されたんだ、なんて思ってしまって、つまんない文言だなと判定されてしまいそうである。

「かもしれない」は、そんな変な可能性にまで触れてくれるんだ、みたいな愉快な奇抜さを意識して使うとよいのかなとは考えた。

「かもしれない」が連発されている文章を読む機会があって、なんとなく「すごくつまらん」と感じてしまうなあ、と思わされたため、その理由を考えていた。そして、今回に関して言えば"わかりきったところ"にばかり目を向けさせられたからなんじゃないかな、って思ったのだった。わざわざ「かもしれない」を付けるようなことじゃないだろ、と言いたくなる普通で安易な判断が確かに多く思えた。意志や嗜好を示すことなく、「かもしれない」で文章量などをぼやかしている(目眩まししている)ように思えたせい、というのもあるかもしれない。

かもしれない運転

「だろう運転」は楽観的、希望的な予測に基づいた運転を指す。「かもしれない運転」は逆に、悲観的で、可能性の低いことまで踏まえて慎重に運転する。自動車運転の教習では「かもしれない運転」を心がけましょうとうながされるようだ。

「かもしれない」って言葉は、あまり気乗りしないことであっても、感性や想像力にシンクロもしなければリンクもしないことであっても、つまり"テキトー"なことであっても、言えてしまうんだよな~、みたいなことを書きながら考えていたわけだけど、気持ちをこめなくてもよいからこそ、さまざまな可能性に目を向けられるってことがありうるんだろうな、と思った。「かもしれない運転」のことを考えていて思うところがあった。期待もなければ意志もなく、あるいは不安や不快もない、発言するときの心情とはかけ離れた、ありえるだろうとさえ思えないような、異質で縁遠い出来事にだって、意識を繋げることができる。認識しておくためのルートを維持させてくれる。そういったふうに使えばよいんだろうなと思った次第であった。