▼▼美しくありたいとか強くありたいとか思う時に見える心象風景が、あるいは、理想像として現時点で「思い浮かべられてしまう」姿が、教育や洗脳により押し付け抑圧された思い込みで──結局は「嘘」であったらどうしよう、って思考実験をしてみると、かなりの率で「考えたくなくなる」ところがある。薄ら寒くなるなーって思った。▼▼あ! ウスラサムイ、なんだ。ウスラザムイ、って読んでた……。▼▼けど、まあ、欺瞞の可能性はあまりない、とも思うのだよなー。検証はもう趣味のようなもので、疑いのかけらでもあれば追求はしているはずだろう。狂信者が自分を疑いうるのか問題にはなるにせよ、疑おうっていう欲求が強いのに疑えなかったりは……するか。横滑りとかならしそうだよなあ。おそらく「被弾箇所を巧みにズラして疑念解消を誘ってみせる」くらいの狡猾さは発揮されるだろう。精神の防御性能を甘く見ては駄目、みたいな話になった。
▼▼起床時刻は午前9時。勤務は休み。けど勤務先には顔を出す予定だ。
▼▼昨日は世界が輝いて見えたけど今日はどうだろう。昨日は同時に不満もあって、不満は自分への不満で、楽しげで美しげな世界を眺めながら、直していってやろうじゃん的なことが考えられていたのだけど、今日は思えている、かなあ? 前提から見直して、設計し直すことが重要なのでは? なんてことを現段階では考えるようになっている。業務にせよ試験勉強にせよ人生にせよ、場当たりすぎるところがあるからだ。というか、正直な話、場当たり的でないやりかたを学んできてなさすぎるところがある。乱暴に言うと、賢人如き人達の語る「一週間くらいまとめて休んで人生とか考えろ」とか言ってしまえることの効用とか意味があまりわかっていない、と言える。ので、わかってみようかなー、と考えているのだった。活かせそうな助言として今はそれが特に目につく、っていうかな。