世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年05月19日(日)類似した単語は勢いで使い分けてるだけ

背景・文脈

「明白」「明確」「明瞭」、「反省した」「自戒した」、「できるだけ」「なるたけ」「可能な限り」、「視線」「まなざし」、「見極める」「見定める」、「表面的」「表層的」、「と感じた」「と思った」「と考えた」。

類似した意味の単語を選ぶとき、えいやっ、と、勢いだけで決めているところが正直あった。感じ取れる意味を、まじまじと見つめ、細やかな差を見出して、最善の選択をしてみせよう、せめて慎重に選ぼう、という、気概と繊細さが足りなかった。荒っぽかった。

適切じゃない単語は選ばない、ささやかなズレも許さない、とまではいかなくとも、自分なりに正しいと思えるところまでは「この単語をここに置く」理由を突き詰めてみよう、という考えを自然にいだいているひとを見る機会があって、こういうところの精緻さ、実直さ、懸命さの積み重ねが、「敵わない」になっていくんだろう、と想像した。見習いたい。

2024年05月18日(土)画一的になっていくタイプの進歩

画一的な冒頭ハイライト

冒頭でハイライトシーンを見せる手法、形式がかなり定番化してきた。もともと動画編集で見かけることの多いやりかただったのだけど、最近だと、Twitterのマンガ紹介でも見かける機会が増えた。少なくともぼくの観測範囲内でははびこっている印象かな。一番目の画像にまずハイライトシーンが配置されている。そしてたしかに、実際、釣られてそのあとを読んでいる。ある程度の効果はあるんだろう。

ぜんぶがぜんぶ同じになったらつまらん、といった反骨精神も、わかなくはない。が、人体構造上・人間生理的に逃れられないリアクションがあるのも間違いなくて、もしこれがそれに値するなら、制止しきれるものでもないんだろう。みんながみんな食事を取っているのはつまらんよね、と謳って、「食事を取らない」ことを推奨しても、行き届くわけもない。どうしたって効果的なやりかたがあるなら、ひとびとがそこに詰めかけるというか、収束していくのは、避けられない。

人体構造上・人間整理的に逃れようのない性質に引きずられて、"働きかけかた"が画一的になっていく流れは、とはいえ、よいことばかりでもないんだろう。あんまり好きでもない。しょうがないよね、と諦観していればよいわけでもないんだと思っている。慣れや飽きが阻害してくれる場合も、あくまで程度問題である場合も、なくはないんだろうけど、だからといって、静観していればよいわけでもない。快楽物質に踊らされるギャンブルに群がる人類を放置していてもよいことはない。

「巨人の肩の上に乗る」じゃないけれど、人類が過去に見つけだした「優れた理解」「適した手法」が、疑問視されなくなっていくことで(常識化して、染み通っていくことで)、次なる段階に手を届かせてくれることも、まあ、あるんだとは思う。新しい境地に辿り着くための足掛かりになってくれることだってきっとある。ほとんどのコンテンツの冒頭にハイライトシーンが置かれるようになってしまったら、状況としては同じものばかりでつまらんのかもしれないが、しかし、次の段階に行くためには、自明のものにならないといけない可能性も(確率は低くとも)なくはない。

よさげなやりかたが画一的に拡がっていって、定番化して、おんなじようなものばっかりになる、っていうシチュエーションの受け止めかたは難しいな、とはあらためて思ったのだった。そんなのつまらんと言いたくなることはたしかにあるし、言うのも簡単だが、しかしそれは、過渡期で文句が言いやすい、というだけかもしれない。欠点が言いやすいものにツッコんでいるだけかもしれない。中長期的な便益を無視して、安易にケチを付けているだけな可能性はある。

「冒頭部ハイライトシーン配置」が、人類にとって最良最適の技だとは思っていないし、「このやりかたも見飽きてきたので、次いきましょう」といった、刷新と新鮮味の優先順位のほうがいずれ高くなっていくんだろうとは思ってもいるのだけど、だからって、「画一的になっていく」現象を一律で責められるものでもないか、とは考えていた。

2024年05月17日(金)ジョークっぽいマジトークの存在意義

同じ話

同じ話が何回出てきても別にいいじゃん、とは思っている。まったく同じ理路・側面のまま、なんの面白味も加えずに語られたら、さすがに飽きずに済むか自信はないのだけど、異なる話題の構成要素として、ちょくちょく、同じ話題が差し出されてくる、っていう状態は、むしろ好みだ。嬉々とした雰囲気で語ってくれるなら、おんなじ題材であっても、けっこう楽しく聞けるもんだよね、っていう切り口でもよい。いずれにせよ好ましい。

「さいきん読んだこの作品、前も話したんだけど、ほんとうにすごくてさ~、ここがとってもいいんだよね~」とかなんとか、ぜんぜん違う話をしていたはずなのに、興奮のあまり、また同じことを熱弁してしまった、話が同じほうに収束していってしまった、みたいな事態も、悪くない。話題が変わり、文脈が変わったことで、語る角度もちょっと変わる、みたいなノリなら、むしろ嬉しい。

自分の文章

功罪あるんだろうなと思うところはあるものの、ぼくの場合、自分自身が書く文章、だいぶ好きだ。自分にとって好ましい言葉を内側から放てている認識である。こういうのも、まあ、特質や個性、って呼べたりするのかなとは思った。ビジネス文脈でいうなら競争優位性というか。無意識にやってしまう行動。努力せずにできる努力。ほんとうに優位かどうかは不明だけど。努力といえるかも謎だけど。とはいえ、活かせる環境、組み合わせは、ありそうだとも思える。よい働きをさせられる舞台が見つけられるかどうかで、あつかいが変わる気はする。

ジョークなのか

ジョークなのか、本気なのか、ジョークに見せかけた鎌をかけるための実質マジトークなのか、ほんとうに区別がつかん、というところがあって、ずっと困惑させられている。昨今の職場の問題、ないしは、上司のトークの機微の話かな。この種の困惑の話は、同じ職場のひとからも聞いたことがあるので、昔からの文化ではあるらしい。今日もそういった事例があった。不快~、まあ記録しておくか~、と思い立った。業務中にやられるのはほんとうに困る。職場や業務の温度感もわからない初期のうちから連発されたのも多くの混乱を呼んだ。落ちとなるネタばらしがないのもだいぶひどい。というかそこがポイントな気もする。最後に思惑を明かしてくれるなら、いずれ、空気が読めるようにもなっていくことはあるだろう。理解の精度を上げていけると思う。が、投げっぱなしじゃ厳しい。判断基準に昇華させていくのが難しい。そして、まあ、投げっぱなしのことのほうが多い。結果、身になっていない状態である。馴染むことなく、困惑させられ続けている。

なかでも、「そこで厳しく言ってやったんか?」というフリは、本気の場合も、ジョークの場合も、あって、困る。極端なくらい厳格に叱責してやれ、っていう指示と、そこまで厳しく言わなくてもよいよ、っていう指示の、両極のあいだで(おそらく気分というか、事態と相手の"気に食わなさ"によって)ツッコミの温度を変えてくる印象だ。笑って流そうとしたときに、「いやそこは言うべきところだろ」と指摘されることもあれば、ほぼ似たような話に対して、そう伝えます、と真面目に対応したときに、「いやいや冗談だから」って苦笑されたりもする。どちらかというとジョークのことのほうが多いのも、混乱に拍車をかけてくる。

2024年05月16日(木)根拠は解析し無化したい

また明日

極めて自然体で見つめていたものが、なんだか突然、怖く見えてくることも、ときどきはあって、基本的にはそれがとても楽しい。怖いけど楽しい。謎の信仰によって、まったく頓着せずに受け止めていたのだけれど、その実、背後になんにもないと、突然感じられるようになってしまい、ビビり始める、みたいな状態である。

たとえば最初に「世界五分前仮説」を聞いたとき、ほんとうに興奮した。「道徳的判断は理性的な推論からは導き出せない」話も、とっても驚いた。時間の流れが実はブツ切りで、ともすれば、完全ランダムに意識上にあらわれていたとしても、気づくことは不可能なんだ、って気づいたときも、笑った。記憶ごと操作されたら原理的に気づけない。明日が3歳で、明後日が82歳でも、記憶ごと動かされていたら気づくわけないし、これが一秒単位でも、気づきようはない。

あとでやろう、また明日にしよう、みたいな無邪気な「後回し」もまた、背後にはなんの根拠もない振る舞いである、とさっき気づいて、やば、って突然怖くなった。どういう行動原理なんだこれ……、と背筋が冷えた。取り扱い注意すぎる。個々の人生の中での使用回数が決まっててよいくらいのやつじゃん、って思った。

2024年05月15日(水)語りきれるまでは続ける気なんかね

愚痴の単純化

整理しやすいよう事象のデコボコを均していく。感情のメリハリも平らにしていく。削ぎ落として、あつかいやすくなるよう、姿を整えていく。とはいえ、やりすぎてしまうことも少なくない。わかりやすくせねば、という狙いが空回りしすぎて、(あるいは、複雑で手に負えなすぎて)、現実から乖離したものさえ作り出してしまうことがある。難解な問題に(文章上で)手を出したときに、前述のような状態になることは、まあありがちだ。手出しできないよりはよいか~、とかなんとか安易に判断し始めていることもある。気づかぬうちに、手に負える範囲だけを相手取るようになっていたりもする。なんてふうに言ってはみたものの、どれくらいが、用法用量を適切に守った「削ぎ落とし」なのかは、不明だ。断定しようがない。検証しようと試みたときに、自分に都合のよい答えを出している可能性は、常に否定できない。

職場や業務、仕事について、愚痴めいた考察を、最近は書いてしまいがちである。ちょこちょこいろいろ気になるためだ。が、いくら書いても嫌いなところをすくい上げ切れた気はしなくて、延々と、悶々としている(だから書き足りなくて、結局、ダラダラと書き連ねてしまっている)。変にシンプルにしすぎると嘘っぽくなる気はするし。だからといって、副作用や共鳴や排他まで織り交ぜた全体像を捉えることができるのか、といえば、それも無理めな気はするし。今日も、「人の失敗を責めるのではなく、応援できる人でいたい」という文章に出くわして、要するにこういうことかな(ぼくが思っていることの中に、こういう方向性の気持ちが、強めに含有されているのは、まあ確実だ)、と思ったのだけど、しかし、これはこれで過度な単純化っぽいぞ、とも思ってしまった。疑わしくなった。「失敗を責める」や「応援できる」の定義、および、それらが「仕事」と関わるときの立ち位置は、ぜんぜん単純ではない。単純化しすぎたかなー、けれど、核心は突いているのかもなー、と思いながら眺めていた。

2024年05月14日(火)根っこのところの合う合わない

価値観

職場や上司が叩きつけてくる価値観と、ぼくの根本的な価値観が、いまいち噛み合ってくれないんだよな、とはあらためて思った。今日も、今後についての方針・助言を聞かされる機会があったのだけど、聞きながら、ところどころにやっぱり強い違和感を覚えていた。ただ、このあたり、整理された対立関係として語るのが、絶妙に難しい。いろんな要素がいろんな角度で対立しているんだと思う。もう少しわかりやすく捉えることができると(そうした説明ができると)、ぼくの頭の中の不安や不満が片付いてくれて、だいぶ助かるんだけども。ぐちゃぐちゃしていてたいへん困っている。

うーん、最も大切なところの対立だけでも明らかにしておけばよいのかな。ほんとうにやりたくない方向性だけでも明言しておけば、多少は落ち着く気もする。混乱を沈静化させられるんじゃなかろうか。たとえば業務をうまく遂行できていない人物がいたときに、そいつが悪い、その人物の能力が低い、サボっているせいだ、といった「安易な」糾弾が、初っ端、飛び出てきがちである。こういう「安易」で「気安」い、内面攻撃、とても嫌いだ。忌み嫌っていると言ってよい。重要な対立点・対立軸を見定めておこうとするなら、取りあげるべきはここなのかな、って思った。最初にそこを攻撃しようとする構えが好きじゃない。環境の問題とか、報酬の問題とか、組織の問題とか、コミュニケーションの問題とか、いろいろな理由が考えられるはずじゃん、とは思うし、そういったところを調査・追求するまでは、粗雑な結論は出したくない。少なくとも、要因を考える初手で、人物側にはフォーカスしたくないのだ。まず人間を責めるのは、非効率で、非合理だろ、とすら思っている。

最近は職場の環境にも多少は慣れてきて、ほんの少しずつだが、動きやすくなってもきているのだけど、ここの「相容れなさ」が解消される気配はまったくない。根づいた文化って感じが強い。今後もこのまま対立が続くなら、やっぱり、合わない場所なのかなとは思う。