世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年05月13日(月)暇だという認識がそもそも勘違いパターン

暇な日にやること

雨音が響く中、目を覚ました。予報より風は弱いようだった。助かった。差し迫った業務はなし。こういう日にこそ進めるべきことがあるんだろう、と認識してはいる。緊急度(アージェント)は低いが重要度(インポータント)は高い、といったエリアの話だ。最優先すべきと言われたりする領域。にもかかわらず、意識されにくく、場合によっては、最も放置されがち、と言われる領域。なんだかんだ「緊急度が高い」ものが優先されてしまうため、一念発起して、決意をあらためないと進まないやつである。現状のぼくの立場(権限)でできることは、限られるけれど、とはいえ、効率化や自動化なら、まだまだやりようがある。途方に暮れている場合でもない。ほかにも、学んでおいたほうがよい知識や手法だっていくらでもあるし。というふうに思索してみて、認識をあらためた。実際は油断してけっこうぼんやりしていた次第である。

2024年05月12日(日)温度感くらいむしろ説明してほしい

規則運用グラデーション

「こういうリスクが想定できるので、ここは厳しくしないとならない(ので、隙のないように対応しておけ)」「トラブルになったらそれはそれなので、そこまで厳密にする必要ないだろ(無駄な時間を使うな)」、といった"規則を運用するにあたってのグラデーション"があるのは、理解できるし、基本的にはしかたがないとも思ってはいるのだけど、しかし、だからといって、なんの説明もなしにその温度感をつかむのは流石に無理だろ、とも思う。大昔に致命的なトラブルがあったので、それを怖れ、いま、うちでは、これくらい厳しくしているんだ、といった歴史背景によるものであったなら、なおさらだ。わかるわけない。

転職したあとの、ここ数年における「疲弊ポイント」を考えていて、前述したようなシチュエーションで「喰らっている」ことが少なからずあったな、と気づいた。加えて、温度感を知らないだけで呆れ顔めいたものを向けられることにも、ダメージを受けている。これまでいろいろと渦巻いてきた不満の一側面ではあるけれど、とはいえ、ここに関しては別にぼくのせいじゃないよな、って思えたポイントではあったので、とりあえず、書いてみた。自己正当化(による自尊心の回復)を狙ってみた。最近のテンションでいえば、ぐちぐち言いたい雰囲気はかなり緩和していたりもするのだが、反面、整理してみせたい欲は強めだ。

2024年05月11日(土)いっつもなんか褒めている型希望

褒める

無邪気というか無頓着というか、自分も相手もニュートラルな心持ちのもとで、「褒め言葉」を伝えられたらなとは思う。変に褒めすぎるとうさんくさい空気がただよいそうなのが嫌いだ。そういう解釈の優先度を高めたくなる世界の風情が嫌いである。大々的に言うものではないのかな、とは考えてしまう。まあ多少はこそこそしていてもよいから、率直に、褒め言葉を放ってみたい。昔のインターネット空間だと多少はそれができていたような気もする。まあ、単にぼくが無鉄砲ないし無遠慮だっただけかもしれないが。あるいは、変に気後れするようになってしまっただけかもしれない。気恥ずかしさを無視できなくなってしまっただけかもしれない。そもそも、感受性が鈍って称賛ゲージが振り切れるところまでいかなくなってしまっただけかもしれない。いろいろ考えたけど、基本は、よいと思ったら、よいと伝えたい。そこにある軋轢は減らしたい、って思った。

2024年05月10日(金)踏み込めるだけ踏み込みたいが

飲み会

楽しい飲み会ではあった。出てくる肉が美味しかったのも非常によかった。奢りも嬉しかった。奢りに対するありがたみは昔より深まっている。感謝はあったけど歓喜は薄めだった。というか、なぜか妙に無頓着であった。高価なものを食べる経験が少なかったせいというのはあるだろう。奢り奢られ自体も少なかった。

いろいろな話を聞いた。興味深い話も退屈な話もあった。話のおもしろさは難しい。誰かしらと話をするにあたって、どこまで踏みこんでよいのか、どういうところまで質問してよいのか、昔からけっこう謎だ。というか、そんなところに対して人類に共通する見解が定まっていそうなところが、昔から好きじゃなかった。「常識的なライン」みたいなものがある(とされている)ところが、正直、嫌いだ。ひさしぶりにそれを痛感させられた。

極めて勝手な話にはなるけど、「常識的なライン」なんてできるだけ気にすることなく、とても率直に、いろいろなことを訊いてみたい。なにを見て、どんなことを考えて、世界と人生を歩んでいるのか、ぼくなりの断面で、相手に尋ねてみたい。その希望と、そのしづらさを、思い出した。表層的なところで話題を"回し"ていく作法に、最近触れなくなっていたため、そういえばこういう不満を覚える飲み会があったな、と思い出させられた。ひさしぶりすぎてそれはそれでおもしろかった。

2024年05月09日(木)仕事については同じところをぐるぐると

仕事概念

人類史を一気通貫して語れる「仕事」概念なんてものは、きっとない。だからたとえば「仕事ができる」と一概にいっても、その内実は曖昧なんだろう、というかケースバイケースなんだと思う。時代と場所によりちょっとずつ形が異なる。一律には語れない。ほとんど張りぼてで、スカスカなことだってありそうである。

といった、「仕事」の"とらえどころのなさ"がある一方、「それはそれとして"仕事ができる"といった境地は目指してみたい」という、ぼくの個人的な思惑・理想・偏見の問題もあって、そのあたりの釣り合いには苦労している。「仕事」と「仕事が上手くできる」ということを、どこにどうやって落ち着かせればよいか、つかみきれず、困惑している。せめて「仕事」が一律で語れるものだったらもう少しシンプルにできるのになあ、って思う。

しかもそのうえに、いまの職に関する、経験の少なさ、成功体験のなさ、自信のなさ、文化や風土のあいまいさ、といった余計な問題が乗っかってきて、なおさら面倒くさい事態になっていたりもする。混乱する。整理のため、すっきり切り分けてしまえばよいような気もするのだけど、それも、なんか、難しい。無関係とはしづらい。断絶させると問題意識としての活力・生気をが失われそうな気もする。結果として困惑は深まっている。

「仕事ができる」ほうがきっとよいよね~、と、極めて朴訥に考えてみたときに、二重苦・三重苦みたいな状況に陥りがちではあるのだった。「仕事ってなんやねん」「仕事ができるって何を指すねん」「そもそも具体的な業務が上手くできていないが?」「できたとしてもここだけで通じるやつなんじゃないの?」といったツッコミが響き渡る。足払いをしかけられてバランスを崩されるイメージだ。

したいこと混線

仕事ができる、能力を示す、成功する、役立つ、褒められる・認められる、稼げる、といった意志・欲望が混線しているところも間違いなくあって、そこも困りどころだ。求めているものが極めてわかりづらい。仕事ができるようになりたいとか言いつつ、その実、褒められたいだけ、役立ちたいだけ、稼ぎたいだけ、といった別の欲望が本体である可能性が、けっこうありそう、とは思えてしまうのだった。まあ、答えがたったひとつなんていう、わかりやすい事態もそうそうないはずなので、答えは別にあった、なんて雑な単純化はせず、たとえばレーダーチャートみたいに捉えるべきなんだとも思うけれど。

うっちゃって、ギャップを埋めようとするだけで、もうよいのでは

概念的な「仕事」「仕事ができる」に関して試行錯誤しているうちに、だいぶごちゃごちゃしてきてしまった。むしろ、ここまでの思索はまるごとうっちゃって、実際に、いま、ぼくのまわりにいる(社内で)「評価されている」「稼げている」人物をちゃんと見つめ、そことの差分を埋めようとしていく行動を、ただ、取っていけばよいんじゃないか、っていうふうにも思えてきた。迷ってるならもう動いちゃえばいいじゃんというか。なんか、書いていくうちに、吹っ切れてきたというか。落ち着いてきた。もともとは、そういった方向を見つめながら話していきたかったことも思い出した。難しそうだな~、好みじゃないやりかたっぽいな~、と感じて、いつの間にか路線変更していた模様である。目を逸らしていた。概念整理でお茶を濁していた。

現職の文化・風土を踏まえると、自主性・主体性・積極性といった「動き出し」を、もっとしっかり目立たせていけば、もうちょっとなんとかなりそう、っていう気は(正直)している。それくらいの"シンプルな"問題なのではないかという予感はなくもない。そこまでいくとシンプルに考えすぎ、というツッコミも思いついたが、逆に、いまが無駄に複雑に考えすぎなんだよ、って気もした。ビジネスで「うまく動けていなくて、行き詰まっている」ときの打開策って、結局はこのあたりによくある、って気もしなくはないけれど。

2024年05月08日(水)勝手に言い換えるが、既存の単語を誤解させるんじゃなければまあよい

可視化と見える化

「可視化」と「見える化」という二つの単語に対して、「見える化」なんてビジネス界隈で勝手に使われているだけの俗で薄っぺらな言い回しじゃん、「可視化」があるんだからこんな言葉使うなよキモイ、といった形で糾弾するような見解を見かけた。その理屈を見て考えたことはいくつかあるが、ほんとうに同じ意味なんだっけ、というのはまず思った。ある単語の「外来語版」や「日常語版」が、もともとの意味と示す範囲を微妙に変えてみせてくれる(繊細な差異を表現してくれる)ことくらい、いくらでもあったので、変に同一視して切り捨てようとするのはよくないんじゃないかな、と思うところはあった。

以前に「可視化」「見える化」それぞれのフィーリングの違いを丁寧に解きほぐしていく説明を見かけたことがあって、そのときに感じた驚きから、なるほどこういうところにもそれぞれの使い道があるんだな~、いずれも大切だと見なして使っててよさそうだな~、と思うようにはなっていた。あいまいな記憶だけど、「見える化」のほうを、より実践的な意味合いを持つものとして語っていたような印象である。頭と手でいえば「手」に近い。数学的か工学的かでいうなら「工学的」寄り。あるいは、実際に"役立つかどうか"というところで線引きをしてみてもよい。役に立たなくても「可視化」とは言えるけど、「見える化」は、役に立つ形で「見えるようにした」ところにしか当てはめられない、というような。

あとは、ごくごくシンプルな不満として、同じ意味合いでも複数の言い回しがあったって別にいいだろ、って思った。薄っぺらくて俗な言い回しだから許されないとか安易に言っちゃうのもなんなの?スラングであることが非難の理由になるってどういった理屈なの?とも思った。学術用語・専門用語が、我田引水的に、意味をねじ曲げられて悪用されているケースだってときにはあるのに、そういった極悪非道なケースを差し置いて、こんな「見える」くらいの日常語を織り交ぜた単語なんか攻撃している場合か?とも思った。

スラング好き

若者なりビジネスマンなりが、新しさ×わかりやすさ×馴染みやすさ、くらいのノリで出してくる変化球的な言い回しは、けっこう好きだ。ネットスラングとかも同様である。たしかに、前述したような、「使いやすいように勝手に捻じ曲げられた学術用語・専門用語(勘違いを誘発させるやつ)問題」もときにはあるため、なんでもかんでも「よし」とは言えないところはあるのだけど、まあしかし、そうじゃないものだってある。「可視化」というちょっと難しそうな言い回ししかなかった時代に、もう少し柔らかさを出せないかな、違う面を強調できないかな、手触りが変えられたらもっとしっくりくるかも、というふうに想像力を働かせてみて、「見える化」とか言ってみせる精神は、だいぶ嫌いじゃない。