世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年05月15日(水)語りきれるまでは続ける気なんかね

愚痴の単純化

整理しやすいよう事象のデコボコを均していく。感情のメリハリも平らにしていく。削ぎ落として、あつかいやすくなるよう、姿を整えていく。とはいえ、やりすぎてしまうことも少なくない。わかりやすくせねば、という狙いが空回りしすぎて、(あるいは、複雑で手に負えなすぎて)、現実から乖離したものさえ作り出してしまうことがある。難解な問題に(文章上で)手を出したときに、前述のような状態になることは、まあありがちだ。手出しできないよりはよいか~、とかなんとか安易に判断し始めていることもある。気づかぬうちに、手に負える範囲だけを相手取るようになっていたりもする。なんてふうに言ってはみたものの、どれくらいが、用法用量を適切に守った「削ぎ落とし」なのかは、不明だ。断定しようがない。検証しようと試みたときに、自分に都合のよい答えを出している可能性は、常に否定できない。

職場や業務、仕事について、愚痴めいた考察を、最近は書いてしまいがちである。ちょこちょこいろいろ気になるためだ。が、いくら書いても嫌いなところをすくい上げ切れた気はしなくて、延々と、悶々としている(だから書き足りなくて、結局、ダラダラと書き連ねてしまっている)。変にシンプルにしすぎると嘘っぽくなる気はするし。だからといって、副作用や共鳴や排他まで織り交ぜた全体像を捉えることができるのか、といえば、それも無理めな気はするし。今日も、「人の失敗を責めるのではなく、応援できる人でいたい」という文章に出くわして、要するにこういうことかな(ぼくが思っていることの中に、こういう方向性の気持ちが、強めに含有されているのは、まあ確実だ)、と思ったのだけど、しかし、これはこれで過度な単純化っぽいぞ、とも思ってしまった。疑わしくなった。「失敗を責める」や「応援できる」の定義、および、それらが「仕事」と関わるときの立ち位置は、ぜんぜん単純ではない。単純化しすぎたかなー、けれど、核心は突いているのかもなー、と思いながら眺めていた。