世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年04月12日(金)特にルール化せずともよい

杓子定規

杓子定規になる瞬間はある。考えが変に堅苦しくなる。意固地になる。特に文章の「網羅性」に対してはそうかなと思った。「すべて網羅できてないならやらない」「ぜんぶ書けないなら最初から手をつけない」くらいの投げやり感が出がちである。記録しない(0)よりは暫定的な記録(1)だけでも残しておいたほうがよいはずなのに、そんなふうに、冷静に思い直せることも少ない。判断を改めさせるために(いま記しているような)こんな文章が必要になってきたりもするし。そういう意味では、それに類する機会をちょくちょくもたらしてくれており、「日記」習慣がついているのは非常にありがたかったりする。

わずかな接触だけでもよい

ほんのり触れ合う程度の接触ではあったのだけど、妙に手触りよかったな~、くらいの出会いも気軽に書いちゃえばよいのにね、とは考えていた。網羅していなくてもよい。わずかな触れ合いでよい。ぜんぶ書き出さないと一個も書かないようなところがあるのでそこはなんとかしたい。

タイトルだけ

ウィッチウォッチ3巻、暗殺教室1巻、蜘蛛ですが、なにか?コミック版の3巻と4巻、豚のレバーは過熱しろ(4回目)、ロギング仕事術、センスの哲学、など、いろいろぱらぱらと読んだ日だった。というかまあ、だいたいこれくらい日々なんとなくページを開いたりはしている。といったタイトル名の記録すらできてないからな~。おそろしい。こういうのが積み重なると間違いなく楽しいものになると経験的には思っているため、書き残すようにしたい。Podcastとか動画とか、ほかにもいろいろあるし。

2024年04月11日(木)新人が仕切りを任されて十全に活躍している姿を初めて見た

送別会や懇親会に遭遇する機会は少なくなくて、まあまあ馴染みがある。決起会や納会との出会いはだいぶ遅くなってからだったし、最初、耳にしたとき、どんな言葉を書くのかもわからなかった。ケッキ?とか思った。いずれにせよ、飲み会めいた空間は嫌いじゃない。喜び勇むほうである。とはいえ、昔ほど楽しくなくなってきてはいるのかなあ、とは思っている。ただ、受け止める側の(こちら側の)気持ちや解釈の問題では、たぶんなくて、集うタイミングとメンツが合わせづらくなってしまっただけだろう。調整しづらくなった。無念だ。しかしそれはそれとして、飲み会自体は嫌いではないため、そこまで楽しく飲めるであろうひとたちとではなくとも、お誘いさえあれば、そこそこ喜び勇んだ気持ちで参加している次第である。今日もまあおおむねそういった木曜日ではあった。

だいたいおもしろかったことにしている

今回の木曜の飲み会と関係あるようなないような話だが、ひさしぶりになにかしらのお誘いを受けたときに、そういえば前回あんまりおもしろくなかったんだよな~、といった記憶がすっぽり抜け落ちてしまっていることが多く、お、楽しそう~、と、瞬間的に思ってしまう癖がある。なんか脳天気にわくわくしている。当日遊びにおもむいたあと、あ、そういえば前回もこんなつまんない感じだったわ……、と、そこでようやく記憶が呼び覚まされたりしている。にもかかわらずそのことすらまたもや忘れ去ってしまい、次のお誘いにも楽しそうだと飛びついたりもしている。うーん、とはいえ、長所やメリットと言ってもよいところではあるのかな。多少ばかみたいなところはあるものの、幸せっぽい空気もなくはなく、われながら嫌いじゃない性質ではある。だいたい二か月くらいたった頃から、なんというかこう、けっこうおもしろかったような……、と記憶を捏造し始める癖がある。

2024年04月10日(水)必要なときだけ形容詞を置く

雨も良い日

ここ何日か雨のぱらつく日が続いた。天候が崩れている、と当初は書こうとしたのだけど、やめた。天気が悪いという言い回しなんかもそうだが、「雨」を不備・欠点エリアに配置することが当然視されすぎなのではとは考える。ダメなものあつかいされすぎじゃんと思う。人類史的にそうだったんだからしょうがないのでは、という判定基準はあってもよい。が、どこかでそれが逆転させられるくらいの見直しが図られたってよいのにな〜とは思ってしまう。雨は恵み、雨はキレイ、雨の日はわくわくする、といった新たな理解が積み重なっていって、いつしか、人類史規模の認識が覆ってくれたらおもしろいのに、とか考える。生活習慣や生活レベルの大きな変節にともなって、生活領域でのパラダイムシフトが起こる事態には、ちょっとあこがれている。

細かい形容が要るか要らないか

たくさん、ちょっと、ときどき、なんだかんだ、妙に、不意に、むしろ、といった小さい言い回しを継ぎ足したくなる癖はある。ことばを重ねられるだけ重ねたほうが正確な情報伝達が可能だとか信じているところがあるんだろう。だが、すべての情報を組み入れて伝えようとすることが、かならずしも妥当なわけじゃないんだぞ、とも思う。冷蔵庫にある食材とにかく入れまくれば最高の料理ができるわけじゃないんだぞ、とも言える。

いちいち「すごく」とか「やや」とか「わずかに」とか「ふと」とか言わなくてもよい。割合や分量、多寡が問われる場面と問われない場面があって、特に求められていないときにそれを組み入れるなら、それは余計だ。削ってよい。あとたとえば、指示代名詞を排除して、すべて、正しい名詞を使って書けば、正しい言葉が書けるということでもない。それも余計なお世話だろう。

なんとなく思ったのか、だいぶ思ったのか、そしてそれを、わざわざ説明すべき場面なのかどうか、ケースバイケースとして、都度都度、ちゃんと判断すべきなんだろう。じゃないと、情報量が増えすぎて、咀嚼不可能なレベルにさえなってしまい、読んでもらえなくなってしまう。求められていない場面で求められていないものを削る、という手際も重要なんだと思う。正確さを目指していった結果が「読んでもらえない」なら意味なしだ。

2024年04月09日(火)要約したが敬して遠ざけたい

翌日は要約日和

事態の流れと、感じたことと、分析的な考えを、ひとつひとつ追いかけながら書いていったため、昨日の日記は長くなった。まとめるなら以下のようなところなのかな、と、翌日に思いつくことができた。こういう、取りまとめを可能としてくれる脳内の"落ち着き"が、あとあとになって訪れてくれたりする。それも気持ちよい。鋭く短くしゅっとまとめてくれる小気味のよい(自分なりの)要約文も好きである。結局同じ話だから、と遠慮してしまうこともなくはないが、素敵な頭の動きの記録として、書き残しておきたい。

昨日の日記の要約

誤った手順で進められた業務があって、なぜそうなったのか、という糾弾が始まるようなシーンがあった。「なんとなくこうだろうと思ってやりました」が答えだった(ぼくの見立てだと、類似の事例が直近にあったため、ただそれに倣ったのだと思ったが、わざわざそう説明するのもめんどうだったんじゃなかろうか)。ともかく、「なんとなく」ということの"確認の甘さ"がそこでは問題視され、なんでこういうことが起きてしまうのか、という(愚痴めいた)話し合いが始まった。

ほとんど雑談だったが、なんにせよ、初手で出された案というか指針が、「怖い人がいないからだ」だった。正直、衝撃的な話のスタートラインだった。制圧的なコントロール、支配と服従、取り締まり、といったものを、素朴に推し進めるようなことばが第一声として出てくる状態に、ちょっと絶望した。好きな思想ではないし、まったく妥当な判断でないとも思う。せめて初手は、仕組みやシステム面での工夫、あるいは「双方の」コミュニケーションの問題として見つめてほしい。敬して遠ざけたいと願うような文化圏だなと遠巻きに考えていた。

2024年04月08日(月)怖ろしいなら解決するのか

恐怖政治

具体的な日常の光景も書きやすいものと書きにくいものがあるな。と、ぜんぜん筆が進まないので「書きづらいよ~」という話から始めてみた形だ。ゆっくり進めていくしかないのかな。うーん、そう、そうだ。今日の業務のさなか、雑談的におこなわれている会話を眺めていて、流石に、いまのぼくの価値観や世界観、ビジネス観にまったく適合しないのではないか、と感じられる話題があった。違和・抵抗・反発・軋轢といったものが生じてくる話を耳にした。ミスや確認不足といったヒューマンエラーに相対するときのスタンスの話だった。

前時代的だろうと古典的だろうと、つまり、時代の趨勢や機微にそぐわなそうであっても、なんだかんだ、荒削りだからこそ堅実で有効な打ち手、というものがあるんだとは、まあ思っている。最新鋭の、現代的な、洗練された学術理論ばかりもてはやしていればよいというものでもなく、人類史上のさまざまな実験結果でわかってきた人間の生理や心理を踏まえた最新理論が、決して妥当なものばかりでないことも、むろんある、とは考えている。

という前提を持っておきたい派ではあって、泥臭くて古くさい打ち手なんかも決して軽んじないようにしているつもりではあるのだけど、しかしそれでも、起きたミスや確認不足に対して(そしてその背景にあった「よくわかってなかったのでテキトーにやりました」という回答に対して)、「怖いと感じさせられていないから、こういうことが起こるんだ」「舐められているからダメなんだ」⇒「恐怖をあたえ舐められないようにすれば解決するのに」、という判断・指針を(さも当然であるかのような顔で)持ち出されると、うええええ、と思うところはあるのであった。そんな話題が出た。胸中でうなった。

スパルタ式にしごけば解決する、恐怖で支配し服従させればよいのだ、そうすれば従順になり物事が円滑に進むようになる、それができていないから現状はダメなんである、もっと怒るひとがいたらよいのに、といった「よさ」が、組織運営に対して推奨される姿に、違和・抵抗・反発といったものを覚えた次第だ。(勉強不足や知識不足かもしれないが)これまでのぼくの人生経験と学んだ理屈を踏まえれば、「妥当でない」とは感じられた。シンプルにいえば、単なる説明不足でちゃんと説明すればよい話なんじゃないの?あるいは、仕組みやシステムで解決する手だってあるんじゃないの?と思ったのだった。少なくとも、こういう工夫のあとに、精神論を持ってくるのが、よい手際・手順なんじゃないかと思う。

まあでも今日の風土や体質が合わないと言っていてもしょうがない。そして、今後ぼくがどういった選択肢を選んでいけるかもわからないのだが、しかし、従業員の理解がおよんでいないという事象に対して、「舐めてるから・甘えてるから、尋ねてこないんだ」「こっちからわざわざ説明する必要なんてない」「システムや仕組みでそもそも誤りがおこらないようにする、なんてわざわざしなくていい」といった空気しか流れないのなら、限界、くらいのことも思わなくはない。見限ってもよい範囲だとも思う。むろん、手出しできるならしたほうがよいのだろう。難しいが。とはいえ諦めればよいものでもないが。

2024年04月07日(日)どこも軽んじられない

なんだかんだしっかり考える人がどこにでもいる

丁寧さ、誠実さ、賢明さ、といったものを持つひとが、どこにあらわれるかなんて決まっていない。確定的な予測はできない。極めて薄っぺらくて軽率な話題・論点のまわりにも、そういったひとたちはいるはずだろう。学ぶに値する知見はどこにでもありうる。安直に舐めてよいエリアなんてきっとないんだろうと考えていた。薄めに薄めた実証性のあやしい雑学的な解説書、表面的なところでとどまったビジネス書や自己啓発書、定型パターンばっかり使っているタイプのライトノベル、といった軽薄な作品とか、あとはまあ、流行りに便乗しただけの誰でも手を出せるような深みのない模造品やモノマネ、みたいなものも多数見られる世の中なわけだけど、とはいえそんな中にも、輝かしいものががっつりひそんでいたりはする。アンダーグラウンドにもヒーローはいるし、ミーハー空間にもヒーローはいる。