世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年04月06日(土)歯医者の方針はわからない

歯医者と自転車

歯医者の通院日だった。はずれた詰め物を治していただいている。引っ越しにともない通院先を変えた。あえて比べるなら、通い始めたばかりのいまの歯医者のほうが、なんとなく腕利きっぽいフシはある。些細な手順についても触れてくれる、施術の手つきが端的に優しくて痛くない、というふたつの手際に魅せられているんだとは思う。あと、現行の医師が以前の治療跡を見て、「ここはこうしたほうがいいんだけどな~」と言っていたことも、まあ影響している。とはいえ、ほんとうに現行の歯医者のほうが適切なのかは不明だ。趣味の違い、方針の違い、といったところが違うだけ(優劣ではない)という気もしなくはない。削る削らないも思想の違いはありそうだし。適正さはわからない。医療関係は特にこのあたりが困るな。選びにくい。まあ、完璧を目指さなくてよくはあるんだろう。比べなくたってよい。望んでいる施術が受けられるならそれでよいはずだ。

歯医者の行き帰りを自転車で往復した。移動手段に自転車が加わった。活用できている。正直、便利だ。「いらないかな」「なくても特に問題なし」「徒歩でじゅうぶん」「むしろ徒歩の運動量が身体によい」といった判断もあって、自転車を欲する場面はあんまりなかったのだけど、実際に素早く移動できると、やっぱり有益だった。ありがたい。助かることも多い。帰り際にクリーニング屋にも立ち寄った。この軽快な経路選びも以前はできなかった。

2024年04月05日(金)不完全さをずらしたが不完全

不完全のロスタイム

もろもろの締め切りが詰まりに詰まった一週間だった。というのと同じ話を数日前にも書いたが、さすがに金曜日にもなると、その空気がさらに濃くなってきている。緊張と集中の一週間だったし、それでも、なんだかんだと理由をつけて、堅苦しさから逃れようと、手抜きやサボりを始めてしまうような一週間でもあった。真面目に向き合おうとする・真面目に向き合おうとしない、を両極にしたときの自分の特性がひさしぶりに顕わにはなった。とにかく今日中に終わらせなければならないものがある、と思いながら動いていた平日最終日でもあったのだけど、ロスタイムのような空気がただよったため、これはチャンス、と、軽々しくそれに乗っかった。乗ってよかったのは不明だ。どう見ても軽率な振る舞いで、粗雑さや無責任さが目立つ結果になっただけかもしれない。成果物の完成度を高めて振る舞いの完成度を下げた。重心をどこに置くかは難しい。なんで「不完全」前提なんだよとは言いたくもなるけれど。ともあれ、帰宅後にも仕事をして最期の仕上げをおこなった。時間はだいぶなくなったので今日の日記はこれで終わりとしたい。

2024年04月04日(木)恥ずかしがって隠さない

怠惰や逃避も開陳する

業務の目標は一年スパンで立てている。が、ここ一年を使って作成予定だった取りまとめ資料の出来が停滞している。期限の間際だ。というか残り二日だ。あせっている。そして、完成は無理めな気もしてきている。正直にいえば、一か月くらい、なんだかんだ、やろうやろうとは思いながらも、後回しにしてしまっていた。手を抜いてしまった。怠惰と逃避をわざわざ開陳するのは恥ずかしいが、しかし、こういった恥ずかしさをいつも(自分に対しても)誤魔化しているから、改善されないんだぞ、前に進められていないんだぞ、といったことも思わなくはない。そう判断して書いてみた。別に公言すれば正せるというものでもあるまいが、ひた隠しにするよりはマシだろう、という判断だ。開陳するという選択肢がかならずしも物事をよいほうに進めるかもあやしいが、無駄足ではないと信じたい。あと、完成させられるか無理めな気がする、とは書いたものの、とはいえ、残り二日あるなら進められる範囲もきっとある。おおまかな輪郭くらいは描けるだろう。それくらいはやってみてよい。未着手よりは間違いなくよい。こういう書きかた、そしてことばも、まなざしを前に向けてくれはする、と判断した。

2024年04月03日(水)期首の成果物にあせる

新年度初週

新年度の初週。提出物の締め切りが目立つ週だ。落ち着かない。というか進みが悪い。ぐずぐずしている。気持ちのどこかでなんとなくビビってもいて、気づかぬうちに、後回し癖も発動させてしまっていると思う。なおさらあせりが強まる日々だ。まあ来週になれば落ち着くだろう。今週は、極力、集中したい。日記の文字数は減らし、時間配分も見直したい。とか考えながら、なんだかんだ書いてしまっているところもあるわけだけど、まあ、書けば書くだけ落ち着くのもたしかだ。精神安定・精神統一のためにいまは書いている。といったところで今日の叙述は終わりとしたい。そういえば、昨日受けたものとは別に、今日もまたわけのわからない叱責的ツッコミを受けるシーンがあったが、今日のやつはおそらく、どうにも防ぎようがなかった。気にしてもほんとうに意味がない、とは考えながら帰路についた(帰り道で頭にこびりついている時点で振り切れていないが)。

2024年04月02日(火)指摘を受けてしょうがなし

指示系統

上司のさらに上の人物から叱責を受ける一幕があったが、上司には報告・相談して定めた案件ではあったため、しょうがなしとは思えた(割り切れないところもまああった)。上司があいだに立ってくれるようなことはなかった。静観という空気だった。フォローしてくれてもよいんですけども、といった愚痴めいたことばも思い浮かばなくはなかったが、期待できないだろうというのが当初からの予測であった。極めて慎重に動けばおそらく防げたトラブルではあったため、後悔や反省もなくはない。上司側も「極めて慎重に動かなかったのが悪い」とか思っているんじゃなかろうか。知らんが。あいだに入っていただけなかった理由を挙げるならそんなところなのかな、とは考えていた。

上司に確認を取った案件で叱責されるようなシチュエーションに対し、指示系統が整理されていないなあ、とか言いたくなるところもなくはない。が、言っていてもしょうがない。都合よく組織の構造や風土を変えられるわけでもないのだし、現状を踏まえ、いまやれることをやるしかない。現時点のルールやマナーへのチューニングから始めるべきなんだろう。今回の件でいえば、上司のさらに上の人物が、変更したところを気にするであろうことは、想定もできたはずであり、二度手間になろうと、動いておけばよかった、というのが反省点だ。なんも考えずに伝えておけばよかった。次に活かしたい。

というか、こういう"二度手間になるのを避けた"せいで揉めるケースは、なんだかんだ多い(だがしかし、"二度手間だろうと確認しておこう"と判断し、尋ねておこうとして、いらんだろそんな確認、邪魔、という空気を出されることもなくはない)。とはいえ、聞いたほうがよいのかどうか、前より、多少は判別できるようになってきた。が、そのせいで今回は油断してしまった。好調じみた雰囲気があだとなった。調子にのってしまったな。なんとなくわかってきて調子に乗り始める頃が一番怖い。落とし穴への落下率がむしろ高まる。慎重には動きたい。

それはそれとして、けど決してよい環境ではないよなあ、とは考えていた。考えられるだけの余白や余裕はいつだって持っておきたいと強く感じた。正直、たとえそれがけっこう理不尽なものであっても、油断すると、素直かつ従順に受け容れてしまいがちだったりする。馴らされて欠点を見なくなっていく癖がある。だがそれは避けたいなと思った。あやぶまれるときはしっかり逃げ出せるよう、目を凝らし、撤退には備えておきたい。

2024年04月01日(月)暗黙知に気が散っている

暗黙知に気が散っている

業務日報。あらたな追加人員に対して、組織や業務、注意点の説明をおこなった。「これは話してよい」「これは話してはならない」といった区別が、あいかわらず曖昧で、今回はそれの最たるものだった。空気を読まされるにもほどがある。「言質を取られてはならない」「訝られてはならない」といった厳格さが求められる場面すらあって、その塩梅も難しかった。理由となる背景も又聞きに近いため、余計に難度が高まった。もう怖いといってよいレベルだった。とはいえ、流石に時をへて空気がつかめてきたところもなくはなく、それに準じる形で、ある程度の説明はおこなえたと思う。ほがらかな人格には見えた。が、猫をかぶっている可能性は(けっこう)ある。

会社の話をする際、「空気」「文化」「風土」「印象」といった単語を頻出させていることには、気づいている。あんまりよい傾向ではないだろう。空気がつかめていない・文化に馴染めていない、といったフィーリングばかりに目を向けさせられるような環境は、きっと、あんまりよいものではない。言葉にされていない範囲が大きいのはよくない。なんとなくで仕事してるんかい!とツッコまれてもしかたがない。

とはいえ、暗黙知(言葉でない領域でしか示せないもの)の重要性というものも、また、ある。あるはずである。言葉であぶり出すことばかり考えていればよいものでもない。もちろんそこは踏まえたい。

物事のキモに近づけば近づくほど、言語化が難しくなりがちなんだとは思っている。複雑になり精緻になり、微小になっていくためだ。見づらくなっていく。言葉で伝えるのが不可能レベルな事柄だってありうる。そんなふうに、言葉の限界を超えて「語りようがない」ところまでいってしまった事柄については、暗黙知として、つまり、空気や文化によって、示してみせるしかないんだろう。たとえ多少の曖昧さはかかえるとしても、空気や文化で示すしかないことがあるんだと思う。そこにも価値がある。すべてを言語化しよう、すべてを構造化しよう、すべてを形式知にしよう、という指針は、無理だ。

そういった状況は理解したうえで、「とはいえ言葉にしてなさすぎる」と思ってはいるのであった。「暗黙知だから」ということをたとえば言い訳にし、空気や印象の話ばっかりし始める、という状態は、やっぱりよいものではない。

核心に近ければ近いほど「言葉にしづらい」のであれば、逆に、核心でないところは、できるだけ「言語化されていたほうがよい」はずじゃん、というふうにも考える。むしろ強く思う。あと、いくら「雰囲気で示すしかない重要な領域」があるとはいえ、だからって、雰囲気ばかりに所属者の意識が割かれがちな環境がよいものなわけないじゃん、という判断でもある。気が散っているってことだぞと思った。