世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年04月08日(月)怖ろしいなら解決するのか

恐怖政治

具体的な日常の光景も書きやすいものと書きにくいものがあるな。と、ぜんぜん筆が進まないので「書きづらいよ~」という話から始めてみた形だ。ゆっくり進めていくしかないのかな。うーん、そう、そうだ。今日の業務のさなか、雑談的におこなわれている会話を眺めていて、流石に、いまのぼくの価値観や世界観、ビジネス観にまったく適合しないのではないか、と感じられる話題があった。違和・抵抗・反発・軋轢といったものが生じてくる話を耳にした。ミスや確認不足といったヒューマンエラーに相対するときのスタンスの話だった。

前時代的だろうと古典的だろうと、つまり、時代の趨勢や機微にそぐわなそうであっても、なんだかんだ、荒削りだからこそ堅実で有効な打ち手、というものがあるんだとは、まあ思っている。最新鋭の、現代的な、洗練された学術理論ばかりもてはやしていればよいというものでもなく、人類史上のさまざまな実験結果でわかってきた人間の生理や心理を踏まえた最新理論が、決して妥当なものばかりでないことも、むろんある、とは考えている。

という前提を持っておきたい派ではあって、泥臭くて古くさい打ち手なんかも決して軽んじないようにしているつもりではあるのだけど、しかしそれでも、起きたミスや確認不足に対して(そしてその背景にあった「よくわかってなかったのでテキトーにやりました」という回答に対して)、「怖いと感じさせられていないから、こういうことが起こるんだ」「舐められているからダメなんだ」⇒「恐怖をあたえ舐められないようにすれば解決するのに」、という判断・指針を(さも当然であるかのような顔で)持ち出されると、うええええ、と思うところはあるのであった。そんな話題が出た。胸中でうなった。

スパルタ式にしごけば解決する、恐怖で支配し服従させればよいのだ、そうすれば従順になり物事が円滑に進むようになる、それができていないから現状はダメなんである、もっと怒るひとがいたらよいのに、といった「よさ」が、組織運営に対して推奨される姿に、違和・抵抗・反発といったものを覚えた次第だ。(勉強不足や知識不足かもしれないが)これまでのぼくの人生経験と学んだ理屈を踏まえれば、「妥当でない」とは感じられた。シンプルにいえば、単なる説明不足でちゃんと説明すればよい話なんじゃないの?あるいは、仕組みやシステムで解決する手だってあるんじゃないの?と思ったのだった。少なくとも、こういう工夫のあとに、精神論を持ってくるのが、よい手際・手順なんじゃないかと思う。

まあでも今日の風土や体質が合わないと言っていてもしょうがない。そして、今後ぼくがどういった選択肢を選んでいけるかもわからないのだが、しかし、従業員の理解がおよんでいないという事象に対して、「舐めてるから・甘えてるから、尋ねてこないんだ」「こっちからわざわざ説明する必要なんてない」「システムや仕組みでそもそも誤りがおこらないようにする、なんてわざわざしなくていい」といった空気しか流れないのなら、限界、くらいのことも思わなくはない。見限ってもよい範囲だとも思う。むろん、手出しできるならしたほうがよいのだろう。難しいが。とはいえ諦めればよいものでもないが。