世界は称賛に値する

日記を書きます

深掘り乱高下3/4土

コアキーパー

早期アクセス版ということで今後まだまだ要素が増えていきそうな『Core Keeper』でまた遊んだ。次のアップデートでは動物要素、ペット要素が増えるようだ。楽しみ。最近ちょくちょくマルチプレイで遊んでいる。みなさま楽しそうにしているのでたぶんかなり遊び心地のよいゲームなんだと思う。なんとなく遊びたくなる。

新しい素材を見つけようという回だった。前回新たに行けるようになったらしいエリア(ぼくは前回、不参加だったので、今回初見となる未知のエリア)を軸に、おのおのが好き勝手に穴を掘ったり魚を釣ったりしていた。それだけでおもしろいのだからやっぱり偉大だ。

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学習参考盲従3/3金

繰り返し議論

はてなブックマークにはなんだかんだお世話になってきた。この話って何周してるんだろ、というかまたその問題で揉めてんの、みたいな、油断したらすぐ湧いて出てくる議論に対して、ブックマークコメントではっとさせられた経験はたくさんある(最近はそういうことも減ったし、その減ったところが問題視されてる気もするけれど、しかしなんにせよ、お世話にはなった)。

正直そういう学びがちゃんと身になっているかはあやしくて、そこはちょっとなんとかしたい。あと、端的なコメントだからこそ説得力があるように見えただけで、あらためて広い視野のもとで見てみたら、そんな切って捨てたような答えじゃぜんぜん足りてないよ、ということがありそうなところも(かなり大きな)問題かな。

そうなんだよな~。問題の一部だけを切りとって、狭い範囲に対して尊大な風情で、これだからこうだろ、ってツッコまれていたら、そしてその”狭い範囲の中では妥当”であることが口にされていたら、「たしかに」って思うほうへ誘導されてしまいがちではあるんだよな~。このあたりの理解や検証の甘さが弱点だなと最近は思わされる。言うなれば釣られがち。釣られがちだから、釣り記事、みたいなものに対する忌避感も強いのかな~。楽観とか信用とかが強い(あるいは雑い)という話にもなりそうだけど。

とはいえ、この話って何周してるんだろ、またその問題で揉めてんの、みたいな議論に対する、しっかりした答えって、いくつも聞いてはきてるはずなのだ。ブックマークコメントなり議論に言及したブログなりで、もうその問題は答え出てるじゃん、と言えるような納得回答を見かけてはきているはずである。それが身についていないのは無念だ、とあらためて思った。さっくりと履修し終えて次に行きたいぞ、といった気持ちはある。

経験から言うと、ふろむだ氏とかfinalvent氏とかmeztool氏とかの言説を巡っていったら、数々の”ありがちな”議論に対する、納得いく答え、だいぶたくさん書いてくれてそうである。

むしろ文学的3/2木

文学的あるいは詩的

文学的あるいは詩的といった言葉であらわせるような日記(日常についての語り)が好きだ。そういう空気を覚えるたびにとても素敵だと思っている。「実感の細やかさを高めてくれる」ような言葉の連なりがあると言えるかな。密度や精度を高めてくれる薫りがただよう言葉だ。そういう文章がときどき出会って、それらを勝手に、文学的とか詩的とかラベリングして呼んでいる、と言ってもよい。文学や詩ってこういう薫りがするよね、と安易に思いこんでいるところもありそうではあるけれど。

自分もまたそういう日記を書きたいのだが、難しい。うまく書けないなとはずっと思っている。そして突破口についても考えている。文学とはなにか?詩とはなにか?といった疑問にぶつかっていき、綺麗に解明することで、それらを会得することができるのでは、とも考える。腑分けして部品化することによってツールのようにあつかおうとする切り口だ。ただ、文学や詩というのはそういうやりかたで習得するものではないんじゃないかな~、というイメージもなくはない。生体のようなイメージだろう。無邪気に解体したら死んでしまいそうなイメージ。

文学的あるいは詩的なことば。「感じる」を無数に積み重ねていくことで「わかる」につなげていく(つなげてみせる)文章、なんてふうに言えるのではないか、とは思った。感覚・感覚・感覚と、がんがん「かんじたこと」のことばをぶつけていって、物量で”わから”されるような状態。

今の自分は、たぶん、感覚の言葉ばかり連ねていくと、いずれ怖くなる。これで伝わるだろうかという不安に陥っていく。そうして、その不安をまぎらわすために”説明”に逃げてしまう。”説明”することで安心する。──というようなことをやっているんじゃないかな、という現状分析を思いついた。あんまり"説明”に頼りすぎると「文学的」「詩的」に辿りつきにくくなる、というふうに問題を捉えた。まあまあそういう面はありそう。

この場合、“説明”というのは、「わかる」ために”経路”までお膳立てしてしまっている言葉、みたいなものになるかな。配置が決まっている言葉というか。論理性に重きを置いた言葉。論理に縛られているような、論理の流れから逃れられない、言葉。

子育て脳研究3/1水

パパは脳研究者 子どもを育てる脳科学

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一般に、記憶力のいい人ほど、想像力がない傾向があります。なぜなら、記憶力に優れた人は、隅々までをよく思い出せるため、覚えていない部分を想像で埋める必要がないから。普段から「よくわからない部分を空想で補塡する」という訓練をしていないと、想像力が育たないのです。記憶力の曖昧さは、想像力の源泉です。


実は、記憶が正確だからこそ「百舌の速贄」は忘れられてしまうのです。この意味がわかるでしょうか。モズになったつもりで考えてみれば瞭然です。今、獲物を刺した枝とその周囲の風景を、写真を撮るように「パシャッ」と正確に覚えたとします。でも、枯れ葉や枯れ枝は風が吹けば飛んでいってしまいます。すると、それだけで写真の記憶とは照合できません。つまり、「このエサは自分が刺した獲物ではない」と判断してしまう。 記憶は、正確すぎると実用性が低下します。いい加減で曖昧な記憶のほうが役に立つのです。


「ヘッケルの反復説」は、記憶力についても当てはまります。記憶スタイルも進化の過程をなぞるように変わっているからです。幼い子どもほど記憶力が優れているように見えるのは、誤解を恐れずに言えば「まだ進化的に初期の動物みたいなもの」だと解釈することができます。子どもは「正確な記憶」が得意。だから、まだ充分に有用性を発揮しきれない。それが成長によって、大人らしい「曖昧な記憶」に成熟していくわけです。

池谷裕二『パパは脳研究者 子どもを育てる脳科学』を読んでいる。脳研究者である著者が、自身の子育てエピソードを下地に、脳研究の知見を語る。新鮮な話が多くとてもおもしろい。

ぼんやりした記憶こそが人間の特性であるという項を読んだ。完璧な記憶は応用性に欠け、曖昧であり抽象的であるからこそ適用範囲が拡がる、という視点だ。極めて記憶力がよい人物は友人や職場にもいて、恩恵や成果というものを考えたときに(安易な想像ではあるものの)、憧れをいだくこともあったのだけど、当然ながら、やはりメリットデメリット両者の側面があるものなのだな、と認識を新たにした。これに限らず記憶の話はどれもほんとうにおもしろいな。

延長のニッケル2/28火

前の文の記憶

文章を読むときは、まず最初の一文を読み、次の一文を読んで、さらに次の一文を読む、というふうに進めていくはずである。飛ばし読みとか途中を読んでみるとかあるだろうけど、基本的にはそうだと思う。そしてその際、読み進めるたびに、”一文”ずつの認識や知識が増えていっているはずだ。けれど、読み終わったときにそのぜんぶを憶えているわけではない。ちょっとずつちょっとずつなにかが抜け落ちていっている。ぽろぽろと少しずつなにかがこぼれ落ちていっているはずである。

そもそも、例えばただふたつの文のみで構成された文章があったとして、一文目を読んで、そのあとの二文目を読むとき、どれだけ一文目の内容を憶えているんだろうか。最初の文を踏まえ、それを前提や下地にする形で、論理的に、次の文へ繋げていっていることは、もちろん多々ある。が、そこにある「論理の繋がり」を、どれくらいしっかり見つめ、繋がることを意識しながら、進めることができているんだろうか。頭の中でどういうふうに一文目と二文目を両立させているんだろうか。

記憶力ってひとそれぞれだし、文章の読みかた、読んでいるときの意識のはたらき、も、ひとそれぞれでかなり違いそうだ。ということを考えたときに、一文一文の記憶と忘却の運動ってどんなふうになっているんだろうなあと思った次第である。同じ人間の中でも気分や調子でかなり変わってきたりもしそう。そのあたりを比べてみたいなとかそれぞれの実感を詳しく聞いてみたいなとかは思った。

原子番号28 ニッケル(Ni)

ニッケル。硬貨に使われている印象が強く、500円硬貨、100円硬貨、50円硬貨の素材のようだ。硬貨に使われるくらいなので豊富な元素でもある。地球においては5番目に豊富。また、ステンレスの原料としても使われている。めちゃくちゃ重要じゃん、ってなった。いまの社会やいまの生活に適合していて、”よく使われている”から”重要”だ、という理屈、自分勝手なやつだよね~、とは思ったけれど……。「ぼくにとって役に立つ」から「価値がある」と判定してやる、という理路、あんまり好きではない。硬貨の話が出たので改めて調べてみたが、5円硬貨は黄銅(銅・亜鉛)で、10円硬貨は青銅(銅・亜鉛・スズ)が素材だった。聞いたこともあったかもしれないけど認識していなかったな~。

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凝視のコバルト2/27月

文章表現400字からのレッスン

目の前のものをしっかり見つめ、丁寧に描写する。”観察”は十人十色だ。ほかのひとと同じ”観察”にはならない。そして、そこから文章表現というものが始まるのだと思う。厳密には、ほかにも文章表現が始まる地平はあると思うのだけど、ここに、そのひとつがあるのだと思う。

ぼくがとても好きな本のひとつに、梅田卓夫『文章表現 四〇〇字からのレッスン』がある。ちくま学芸文庫から刊行されている文章の書きかたについての本だ。この本から、前述のような学びを得たと思っている。観察の大切さを理解し、意識するようになった。できるだけ意識するようにはしている。が、見失うことも多い。疲れるからだろう。可能な限り見つめて、見合うだけの言葉を選ぶのって、ほんとうに大変だ。意識や思考のリソースがごっそり削がれる。だからこそ無意識に避けてしまっていることがあって、サボリを自覚させられることもある。最近もちょっと気づいて、反省した。

身体性にフォーカスするのが重要なんだろうな~、とは考えている。観察もつまりは視覚の話であり、身体性の話だ。「物理的なからだ」を立脚点にすることによってこそ、十人十色の言葉が書けるようになるんじゃなかろうか、という視点である。個性、独自性、といったものに繋がる重要な道のひとつが身体性というものの中にあるのではないか、という視点でもある。物理的なからだが見せる「個別性」は非常に強力なので、それを活かして言葉を書く、という切り口が、かなり効果的なんだと思っているのであった。

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レトリック感覚

極端に単純化して言うなら、国語辞典には、私たち日本人が、世代をかさね、地域を越えて共有化してきた、標準的なものの見かたを表現するためのことばの部分品―—単語――が収録されている。それゆえ、常識的なものごとを表現するためには、それらの単語を常識的に組み合わせ、つないで文をつくればよい。言いかえれば、共有化されていない、標準化されていない認識を言いあらわす既製のことばは辞書にはのっていない、ということでもある。ゆうべ、あなたひとり《だけ》が、たった一回《しか》体験しなかったことがらには、名前がついていない。

佐藤信夫『レトリック感覚』もいま並行して読んでいて、直喩に関する章で出てきた「一回性」も、観察や身体性に関わってくる概念なんだろうな~、と考えていた。標準や常識、共有によって支えられた「ことば」を超えてくるものと、出会い、それをなんとか「ことば」にしようとするときに、じぶんだけの文章表現が立ちあらわれてくる。観察という具体的な行為、身体という枷と個別性、が、ことばから離れよう離れようとしてくる中、直喩のような言語的工夫が、なんとかそれを、押さえこんでくれる。押さえこむだけの力になってくれる。というような構図だ。

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原子番号27 コバルト(Co)

コバルト。コバルトブルーという単語が最も耳にするところかな。ケイ酸コバルトとして利用することでガラスなどがブルーになるようだ。妖精を意味するコーボルトが語源という話があって、ファンタジー世界で魔物や亜人として出てくるコボルトと関連しているのか、というのは驚きだった。錆びづらくて酸やアルカリにも侵食されにくい、ということで、コバルト合金は高級素材として利用されているようだ。コバルト爆弾という概念もあるようである。

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