世界は称賛に値する

日記を書きます

むしろ文学的3/2木

文学的あるいは詩的

文学的あるいは詩的といった言葉であらわせるような日記(日常についての語り)が好きだ。そういう空気を覚えるたびにとても素敵だと思っている。「実感の細やかさを高めてくれる」ような言葉の連なりがあると言えるかな。密度や精度を高めてくれる薫りがただよう言葉だ。そういう文章がときどき出会って、それらを勝手に、文学的とか詩的とかラベリングして呼んでいる、と言ってもよい。文学や詩ってこういう薫りがするよね、と安易に思いこんでいるところもありそうではあるけれど。

自分もまたそういう日記を書きたいのだが、難しい。うまく書けないなとはずっと思っている。そして突破口についても考えている。文学とはなにか?詩とはなにか?といった疑問にぶつかっていき、綺麗に解明することで、それらを会得することができるのでは、とも考える。腑分けして部品化することによってツールのようにあつかおうとする切り口だ。ただ、文学や詩というのはそういうやりかたで習得するものではないんじゃないかな~、というイメージもなくはない。生体のようなイメージだろう。無邪気に解体したら死んでしまいそうなイメージ。

文学的あるいは詩的なことば。「感じる」を無数に積み重ねていくことで「わかる」につなげていく(つなげてみせる)文章、なんてふうに言えるのではないか、とは思った。感覚・感覚・感覚と、がんがん「かんじたこと」のことばをぶつけていって、物量で”わから”されるような状態。

今の自分は、たぶん、感覚の言葉ばかり連ねていくと、いずれ怖くなる。これで伝わるだろうかという不安に陥っていく。そうして、その不安をまぎらわすために”説明”に逃げてしまう。”説明”することで安心する。──というようなことをやっているんじゃないかな、という現状分析を思いついた。あんまり"説明”に頼りすぎると「文学的」「詩的」に辿りつきにくくなる、というふうに問題を捉えた。まあまあそういう面はありそう。

この場合、“説明”というのは、「わかる」ために”経路”までお膳立てしてしまっている言葉、みたいなものになるかな。配置が決まっている言葉というか。論理性に重きを置いた言葉。論理に縛られているような、論理の流れから逃れられない、言葉。