世界は称賛に値する

日記を書きます

視聴する十六日、水曜日

ドンブラザーズ

戦隊も仮面ライダーも定期的に強く琴線に触れるやつが来る。調べてみると監督や脚本、音楽などが同じ人だったりするので、驚かされる。そこに明確な好みがあることにびっくりする。遠目で眺めていた時には違いを見て取れていなかったにもかかわらず、凝視してみたら明確な違いを感得できている、ということに驚く感じだ。幸せ寄りの気持ちをもたらしてくれるセンサーが、こんなところにも発動してくれるんだ、と思って嬉しくなる。いま放映中の戦隊、ドンブラザーズもその一つである。毎週の楽しみになっていて、続きを見るのが惜しいくらいの気持ちで見ている。このあたりはAmazonのプライムビデオで見られるのもおおきい(環境的に視聴しやすいので、見逃しを気にせず見ていられる)。

好みの戦隊

近年だとパトレンジャーVSルパンレンジャーがここに匹敵するくらい面白かった。あとはトッキュウジャーが心に残っている。ドンブラザーズ含め、いずれも、悲しい雰囲気がにじみ出ていて、とてもよかった。きらめくような明るさの中に差し込まれている鋭い陰が好きだ。そのコントラストを際立たせる音楽も大変よいものだった。こんなかなしい設定をよく考えるものだ、と思いながら見ていた。

物語レーダーチャート

素敵な物語に対して、評価してみよう、と思ったときに、どういった指針で評価したらいいのかな、とは考える。レーダーチャート(五角形か六角形くらいになるかと思われる)の、それぞれの頂点に何を置きたがっているんだろうか、と想像してみる。物語に対して自分が気にしているところ、つまり、自分の切り取りかたを、意識する。世界設定、社会設定、世界観(美意識・価値観・視座)、人物造形、人間関係、言葉選び、物語の展開、盛り上がり、落ち、あたりの要素をぱっと思いつくけれど、ひとつにまとめられるやつもあるだろう。設定関係は設定として一つにまとめてもよいし、人物造形と人間関係も一つにまとめることができそう(明らかに区別しているなら無論分けてもよい)。森博嗣氏が著書で付けていた衝撃、独創、洗練、感性、残留という五つの評価項目も素敵だった(『森博嗣のミステリィ工作室』)。とはいえ、物語を気ままに腑分けしてそれぞれに評点を付けるよりは妥当という気もする。勝手につながりを断ち切って見つめたところでそれは別物なんじゃないかという視点はある。

1巻の評価

評価したいとき、1巻の評価が難しい、という問題も考える。1巻の内容が助走的すぎて評価しづらいことがあるのだ(特に漫画だとそう)。1巻としての面白さ、つまり、助走としてちゃんとできているか、ってことを考えながら評価じみた思考を巡らせてみたりもするのだけれど、こういう評価ってあんまり意味なさそう、とも思ってしまう。それはそれとして(助走についての)技の巧みさを見ることには意味があるとも考えるのだけど。

無自覚我慢禁止

道徳的に、自意識的に、いやだ、つらい、むかつく、と言ってはなるまいという自己欺瞞的な心の動きが(しかも無意識の働きが)、この世にはあって、最も危うい動きだ、って思っている。経験則としている。素直が一番と言える。だから、この人の前であれば素直に表に出せると思えるタイプの人を(思えるような空気感を作れる人を)特に尊敬もしている。そういう人にわたしもなりたい、とも考えがちだ。

同じ話

とか、昨日も書いた話なのだけど。一回文章にしてみたあとに、あんまりうまく言えてなかった気がしてきて、また言うとしたらどういうふうに言おうかなー、って考えている時が、最も整理できるんじゃないか、って思っている。その再整理の言葉も書いてよいじゃん、という認識はある。むしろ書いて欲しいとも思う。もう一回頭の中を整理してみたので同じお題ではありますが少し切り口を変えてまた話しますね、っていうのは好きなのだ。再整理をしたときに別の断面が浮かび上がってくることがあるので、それを見るのが好きである。

別角

想像できていなかった角度からの光景を急に見せつけられる瞬間がとても好きだ。学問なんかはそれの宝庫なので本当に好きである。視野が狭いことを嘆く瞬間なんてのもあるけれど、そういう快楽が味わいやすくなるという側面もあるから、視野が狭いのも時には悪くない、と考えてみることもある。