世界は称賛に値する

日記を書きます

理解と共感



▼▼感情的シンクロ、感情的トレース、が、たとえうまくできなかったとしても、ぜんぜんできなかったとしても、理解、というものを軸に、自らの振る舞いを決定していくことは、可能、ということは判断の下地に置いておかねば、とまず認識した。あんまりまじまじと見つめたことのなかった位置だったと思う。
▼▼とはいえ、感情的なシンクロやトレースができているほうが――感情によってうまく寄り添えているほうが、意識が強くなり、隙が少なくなりそうなので、感情によってうまく寄り添えるようになろう――そちらに向けて頭を使おう、という欲は出がちである(昨日の日記にも書いた話だ)。▼▼情報を増やすことで「感情的寄り添い」ができる割合を増やすことは、可能に思えるし……。
▼▼うーん、でも、情報量、知識量、で変わってくるのは「理解、による寄り添い」も同じなのでは? それとは違うの? それでは駄目なの?
▼▼情報量を増やすことで、感情的な「入れ込み」を強くし、隙を減らす、っていう方向性と、理解しているものを増やして隙を減らす、っていう方向性を、いちいち区別しないぜ、というのもアリかなあ。情報量が大切なんだよ、という形状だ。
▼▼まるで共感できなくても、その相手のことが心底大切ならば、大切にしたい、という気持ちを軸に、欲を持ち、情報を増やしていく――理解を増やしていく――大切にできるようにしてゆく、というスタンス(の話)も、あるし。
▼▼昨日書いた「理解?共感?できる視座を増やしていくことで、やさしくなる――やさしくなれることがあるのでは」ということと、このあたりのごたごたを、混ぜて、うまく整理せねば、と思って、試行錯誤を重ねた。▼▼共感と理解によるコミュニケート(を使い分けるし、諦めない)の話、好きなのにうまく整理できてない感がかなり強いなあ。
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