フツーをすっ飛ばさない
普通にやれること、簡単にやれること、を甘く見て、ちょっと特別、なんとなく奇抜、みたいな手っ取り早そうなところに、安易に手を伸ばす。ショートカットに依存する感じ。結果、基礎がおろそかになり、最後まで、やりきれない。品質だって劣る。
目の前の基本的な型を舐めて、すっ飛ばし、謎の過信によって、これくらいできるだろう、と楽観する。まだまだ、そんな思考フローばっかりだ。反省とか自戒とか言ってるヒマもなく排除したほうがよい観点だぞ、とは思った。
異なる当然をぶつけられて防げない
身のまわりのひとたち全員が、たとえば、突如、夜に棲まう吸血鬼となって、明らかに狂った常識によって会話をおこなうようになったとしても、きっと、自分なりの(人間としての)正しさを胸にいだき続けることくらいはできるだろう、と空想していたこともあったのだけど、ほんとうにその場になったら厳しいのかもしれないな、と思わされるように最近はなった。まわりのひとたちが、全員、いっせいに、「これが常識じゃん」「そんなの当然じゃん」とためらいなく言い始めたら、あれ……、そうか……、そうだっけ、って押し切られそうな気がしてきたのだった。
少なくとも、いま、職場の環境に対して、「組織のありかたってこういうのがよいやつなんだっけ?」「これってぼくがおかしいんだっけ?」と思わされながらも、「これが適切に決まってるじゃん」「そんなの当たり前じゃん」と、平然と言ってのけるひとたち向け、異を唱えきれないでいる。ともすれば怒られて、すいません、と、しゅんとさせられている。面と向かって否定するまではいかないにせよ、「ぼくはぼくで正しいはず」「ひとそれぞれよしとするところが違ったっていいはず」と、思い切れたってよかったはずなのだけど、それすらできず、惑わされている。
"当たり前"感に押し切られ、世界観が侵食されてきているのを感じる。多少は押し止められるんじゃないかと期待していたのだけど、考えが甘かった。なんとか反撃の糸口を見つけたいが、しかし、ぼくのそもそもの見解が的外れなものだった可能性もあって、簡単にはいかない。
ともあれ、「こういうふうにやっていったほうがよくなるでしょ」が、互いに真っ向からぶつかりあったとき、どうすればよいか、うまく学習してこれなかったんだな、という反省はいだくに至った。対話とか弁証法とか、対立する意見の齟齬を、滑らかに整えながら実現化していく手法が、いくつかあったはずだけど、そういうものも、会得というか体得というか、所作として身体に馴染ませていったほうがよいんだろうな、とは思わされた。