世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年07月07日(日)習慣たなばた

習慣化コントロール

アクションのたびに「奮起」が求められていたら、いずれ、息切れする。意志力や精神エネルギーを消費するタイプの行動パターンばっかりだったら持たない。続かない。そのうちぱったり倒れて終わりかなと思う。といった「意志力頼りの続けようのなさ」に対抗するために、「習慣化」が鍵になるんだな、とは思うようにはなってきた。習慣づけのコントロールのクオリティによって成否が決まるシチュエーションが想像できるようになった。いかに「習慣」という性質を管理してみせるか。そうして、習慣化のレベルを上げていくことで、精神エネルギーの消費量を削減できるんだとも思う。

「都合よく動き続けてくれる慣性・惰性を、いかに形成してみせるか」といった問いのもとで考えている。限りなく少ないエネルギーで動く構造や環境を形作ってみせる。いちど動き始めてくれたら、あとはずっと動いてくれるくらいの、大型歯車を、なんとかして、押し出して、動かしてみせるイメージだ。そういった手法を、それこそ「習慣化」するのが肝心なんだろう。人類がいま「続けられている」ものは、意図的にせよ偶発的にせよ、習慣化できたものだけなのだ、とすら思ったりもする。

いかに習慣化するかが肝心かなめ、ということを事実として踏まえるなら、「習慣というものがどんなふうに形作られ、ときに切り替わりうるものなのか」についても、しっかり理解しておくべきなんだろう、とは思った。「習慣」なるものを理解して、嗜好や目的に合わせてコントロールできるようになったら、(理想論としては)最強じみた行動原則が形作れるんだとも思う。「なんだってできる」という豪語すら許されそうなレベルだ。

習慣化するなら(新たな習慣を作るなら、いまの習慣を変えていくなら)、とにかく、無理矢理にでも数日続けるしかない、という話は見聞きする。逆に言えば、無理矢理にでも数日続けることができれば、習慣化できる。結果として、最も重要なのは、「無理矢理にでも続けられるだけの環境造り」の手管になるんだろう。そのあたりの指摘や助言も、また、見かける。習慣にまつわる言説を見る限り、人類は、まあまあ、「習慣」というものを、ほどほどに掌握しつつある印象も、なくはない。振り回されているばかりでもないみたいである。そこはなんとなく素敵だなと思っている。人類が「習慣」を好き放題コントロールしているような世界は見てみたい。

人生より日記

日記(いまこうしているさなかの記述行為)の優先順位がかなり高い。習慣としてかなり深く根づいてしまっている。勝手に高くなっている。たいしてちからを入れなくても回り始めてしまう。そして止まらない。行動や欲において「日記」が突出しすぎている状況をなんとかコントロールできないもんかな~、って考えていた。勉強なり睡眠なり仕事なり、より優先順位を高めておいたほうが、中長期における成果を出してくれそうな事柄も、あるにはある。順番を入れ替えられるなら替えてみてもよい。

ひとことひとこと言葉を並べて文章を流していくアクションに、延々と、没入し続けている。なかなか抜け出しにくい。ハマっている。日記・文章を書くようになってからこちら、ずっと、そんな印象ばっかりいだいていたりはするかな~。人生を犠牲にして日記を書いているのか?といった問いかけが思い浮かぶことすらある。どちらに転ぶのか(どちらに倒れればよいのか)は、わからんけれど、ともかく、適度に、適切に、やっていきたい。あるいは、振り切ってしまったほうがよいのかもしれないが。