日記によるレーン
書籍を一冊読み切ったあと、そこで満足感を覚えられたのが「ある一文」だけだったとしても、意外と問題なかったりはする。この理屈に出会えただけでじゅうぶんだ、って思えていたりする。素敵な一文との出会いだけで憂いのない読後感が得られている場面は少なくない。
日記を書いているときにも同じようなことを思っていることがあるな、って思った。運よく「素敵な理屈」が指先から飛び出してくれて、「よし!」ってなっているケースだ。日記を書いていくうちに、不意に、にゅるっと、手元に、「素敵な一文」が落ちてきてくれるような幸運が、稀におとずれる。
言語化・言語変換で遊んでいるうちに、頭のなかに、「レーン」とか「ガードレール」とか呼べるような溝が、ちょっとずつ築かれていくイメージは、あったりする。自分の言葉が、自分の脳内に、自分だけの「線」や「道」を引いていってくれる。そして、そこをたどって、新たななにかが、手元までやってきてくれる。導いてくれる。
これまで気づくことができていなかった、しかし、意識はせずともどこかで感じてはいた「活き活きとした実感」に、ようやく、あらためて、向き合えるような感覚ではあると思う。言葉を積み上げ、配置し、調整して、その結果、出来上がった「稀少な通路」のおかげで、なんとか手が届くくらいの、か細くて独特な世界観、というか世界感があるなと思う。
言葉を連ねることで、世界に対する新たな角度・深度に、手が届くようになる。不思議な裏世界みたいなものの手触りが、一瞬だけ、指先をかすめてくれたりするだけ、だったりもするが。いずれにせよ、そのあたりをおもしろがって日記を書いているところはあるな、って思った。
まとまらなかった話
「ビジネス・経済」と「豊かさ(人文知的な認識の厚み?芸術?人間の可能性?)」の、噛み合わせかた(噛み合うのか?)、あたりの事象について考えていたのだけど、うまくまとめられなかった。思索メモも積み重ねたものの、発散していくばかりだった。こういう事態がときどきは起こる。整理すらままならずに終わった。
時間の無駄だったと脊髄反射的に感じてしまいそうになって、否定した。明らかに無駄じゃないよと思い直した。無駄だとか浪費だとか、そういったところに対しては、特に、安易に、思わないほうがよい。ヘンに見通しのよい落としどころを見つけ出せてしまった場合より、よほどよいはずである。ぐるぐると道に迷っているのも悪くはない。いままさに「道に迷っている」と自覚できているならなおさらだ(自覚がないと道を踏み外す危険性が高そうではあるので)。
混乱もよいものだ。というか、かかえきれずにはみ出すような、ほどよく暴れ狂うような、混乱じみた事柄こそが、生きる意味、生きるための糧、個性、人生観、などに、いずれはつながっていくんじゃないか、とは、すこしだけ思っているところがある。
イメージとしてはふたつあって、どうしようもなく巻きこまれてしまう運命の奔流のような、嵐みたいな「混乱」と、手のひらの乗せた、わけのわからないぐちゃぐちゃした塊(けれどなんか楽しそうな「混乱」)の、ふたつだ。混乱にも大物と小物があるというだけかもしれない。が、いずれにせよ、こういうものを、割り切るようにして、あっさり切り捨ててしまうのは、きっと、よくないんだろう、とは感じている。画一的でわかりやすい紋切り型に当てこまないほうが絶対によいとすら思っている。