世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年02月15日(木)できるだけ想定した日

シミュレーション粗雑

事態の先行きをしっかり想像できていれば、つまり、精緻で広範な眼差しでのシミュレーションによって多岐にわたるリスクを見回せていれば、"ここ"の確認はおこたっていなかっただろう、といった形態のミスが多い。確認もれを指摘されがちだ。指摘された際には、ごもっともと言うしかなく、想定範囲の狭さを痛感させられる。気づけたはずだったと思わされる。経験不足もあって、うまくコンテクストをつかまえられていなかったと、不徹底を後悔・反省させられる。

ただ、こういったシミュレーションの緻密さの一般的な水準は謎だ。特に、あんまり経験がないにしても、一般常識に照らし合わせれば想定できてもよかったんじゃないの?的な、シミュレーション解像度の適性値がわからない。人並みにできているのかわかりにくい。どれくらいが人並みなのかもそもそもわからない。ミスのたびに後悔も反省もしているわけだけど、いくら気にしたところで、なんでもかんでも気づけるわけではないのもまた間違いないのだし、そのあたりの範囲内でmどれくらいまでが許容されるのか、謎である。結局はまわりの人間の許容度・満足度によって変わるだけという気もしなくはない。フツーそれくらい想定できるでしょ、といった「人並み」レベルをどこに定めればよいか、決めかねて、ふらふらしている昨今だ。

フツーできるの水準がわからない

といった基準や区分にずっと頭を悩ませているところがあるよなあとは思う。そんないちいち気にしたところで答えの出しようもない不毛な問題設定に意識を向けさせられている就業環境がそもそもよくないのでは、という切り返しかたは、ひとつありそうではあるけれど。だからといって開き直りたいわけでもないしなあ。ここまでできていればまあ、という"役立ち"の達成値をほどほどに定められるなら、そこに至れるくらいの意識や努力はしたいし、してもよい、という気持ちはある。

ただ、突きつめてしまえば、結局誰も答えなんて持っていないようにも見える。偶然まわりにいたひとたちの許容度・満足度、つまりは常識が基準になるというだけで、だから、まわりのひとに意見を聞いて、普通っぽい水準を学んで、それをさも「世の中」であるかのように見つめればよいのでは、とも考えたりはする。とはいえそこも、実際は、曖昧だ。気分や印象で決まっているところもきっとある。というか、だいぶある。情報収集から暫定的で卑近なラインを見定めようとしたところで、あやしげな、誰かにとって都合がよいだけのハードルが課されるだけな気もしなくはない。