世界は称賛に値する

日記を書きます

だから、を、いつもと逆に繋げる(繋げられることを知っている)

▼▼「だから」の繋ぎかたって思いのほか自由だったりする。例えば、天気がよい「だから」出かける、と言うことができるわけだけど、悪天候である「だから」出かける、という言いかたも、可能ではある。おなかが空いたから御飯を食べる、とは言えるし、おなかが一杯だから御飯を食べる、というのも、言うことだけなら可能だろう。
▼▼無論、違和感を覚えてしまう「繋ぎかた」があるわけだけど(おなかが一杯だから御飯を食べる……?)、でも、極端なシチュエーションを考案することによって「違和のある言葉」がおかしくなくなるような場面、というのも、わりと想定できたりする(おなかが一杯になった、と思った瞬間に、御飯を一杯だけ食べる、という健康法に最近ハマってるんですよー)。だからつまり、違和感を覚えるからと言って、それが直接、論理的な矛盾や破綻、ということに繋がるわけではない(繋げないものを論理を無視して繋げてしまっているわけではない──ということも多々ある)。
▼▼違和感を覚える時、というのは、要するに、確かにそういう稀有な場面ならそうだろうけどね、と言えるような、極端なシチュエーションを、念頭に置いていない、というだけのことなのだ──極端なシチュエーションのイメージを切り捨ててしまっているだけなのだ。特段意識することなく、自然体で思考していると、レアケース、というものは切り捨てられがちだ。
▼▼極端ケース、レアケース、つまりは、複雑ケース(状況設定を、細かく沢山作っていくことで、極端なケースになり、レアなケースになるはず)、そういったケースの対極に位置するのが、常套句や慣用句、紋切型、といったものたちだろう、と思っているところがあって、そこから、常套句や慣用句、紋切型に頼り切ってるとマズいんだよなー、って思うようになっているところがある、のであった。▼▼ということについて、改めて考えていた(前に書いた日記の続きである)。

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▼▼これはこうだ/こういうときはこうなる/こういうときはこうすべき/こういうものはよい、というような様々な判定において、常套句や慣用句、紋切型の判断、に、普段から頼り切ってしまっていると──つまり、違和感が出ないほうの「だから、の接続先」ばかり使っていると、突然レアケースに遭遇した時に──極端ケース/複雑ケースに立たされた時に、無頓着に「違和のないほうの「だから」の繋ぎかた」をしてしまい、結果として、認識をミスる、というか、精神の安まる判断が持てない、みたいなことが、ありそうだな、って思ったのだった。
▼▼おなかが一杯「だから」御飯を食べよう、と「思ったほうがよい」レアケース、というのが、人生の中にはごく稀にある、なんてふうに思っているのだ。そして、そういう場面に遭遇した時に、ちゃんと「おなかが一杯だから御飯を食べよう」って思えないと危ういんじゃないかなー、って思っているのだ。▼▼というか、思えたほうがよいだろう、という雰囲気かな。でもって、思えるためには、そこにだって「だから」を差し挟むことができるのだ、と、知っておいたほうがよい、と思っている。だからそのためには、常套句や慣用句、つまり「ありがちな判断や言い回し」から、たまに離れておかないと駄目、と思ったりしているわけなのであった。


▼▼「だから」を、自然だ、よく聞くやつだ、と感じるほうとは逆のほうにあえて繋いでみて(そしてそれが明らかな「矛盾」ではない時に)、違和感はあるにせよ受け容れてみせよう、と思えるかどうか、そして、できればそういうことを普段から/自ら、発想することができたりするかどうか、ということの、大切さ、重要さ、あたりのことを、最近は少し考えるのだった。
▼▼自然体で受け容れることができるような、違和を覚えずにいられるような、「だから」ばっかり使う癖がついちゃってると(逆側が可能なことも意識しないままいろいろやっていると)、想像以上に窮屈な世界に(しかも無意識のうちに)追い込まれていってしまうようなイメージがあるのだよなー。なんとなく最近はそういう感じが気になる。そういう感じについてどう言葉にすればよいか考えてしまう。
▼▼今回思いついた「だから」の変な繋ぎかたの許容性、という切り口は、なかなか好きな切り口だ、とも思った。