世界は称賛に値する

日記を書きます

2023年10月20日(金)おもしろいつまらない軸と、生活

おもしろい・つまらない

今日の一日を文章で描いたら、おもしろいとかおもしろくないとか、判定や評価が発生する。人様の日記文を読ませてもらったときも同じだろう。それを読んで、おもしろいなとか、つまらないなとか、思ってしまうに違いない。けどたぶん、あるひとの一日を(自分の一日を)真っ当に、純朴に、ただ見たら、おもしろいとかつまらないとか特に感じないことのほうが多い。もちろん映画やドラマを見るようなテンションで意識的に物語として眺めたら近しいことは感じるだろうし、積極的に「光景」や「世界」におもしろさを見出そうとして眺めた場合も同じようなことを感じるだろうけど、しかしそれらはあくまで特殊なケース(特殊な心持ちからの眺め)であって、日常では思わない。ひとが歩いているのを見ても、ご飯を食べているのを見ても、寝ているのを見ても、働いているのを見ても、おもしろいなとかつまらないなとか思ったことって別にない。生活内でそういった判定・評価はほとんどしていない。

日記を書くことで生活を文章で彩るのは好きだが、日記がつまらないからって生活がつまらないわけではないし、その逆もしかりだ、ということを思い直したかった次第かな。混同したくなかった。無関係さにフォーカスしたくなった。

極めて鈍くて浅い日記文を書いてしまい、つまらないことを書いてしまった、と思うことはある。が、けれどそのつまらない形で文章化された一日と、実際のその一日がどういったものであったかは、ぜんぜん関係がないよというか、おもしろいつまらないという軸が「実際のその一日」に適用されると感じられるならそれはむしろ勘違いだよというか、日記を読む人格と、一日を生活する人格を、切り分けるくらいの無関係さを装っておくのが理想的だよねというか、そんなことを思ったのだった。

おもしろい・つまらない軸を当てはめることによって楽しめるものをしっかり見定めて楽しむことと、おもしろい・つまらない軸が通用しない相手をちゃんと理解して健やかに共存すること、どちらもやっておきたいという感じだ。ごはんの美味しさと、そのごはんの背後にあるストーリーは関係ない、というのが喩えになるかな。いやもっと遠いか。ご飯が美味しいのと、ご飯を食べてしっかり成長して現実を受け止めている"今ここ"は、関係ないよ、くらい言ってもよさそう。