世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年03月12日(火)学び直したいらしい火曜日

学び直している

既存知識の学び直しが多い日々だなと感じている。わかっていると思いこんでいた事柄について、実はぜんぜん理解できていなかったと痛感させられて、あらためて知見を構築し直している、みたいな状態が、最近は目立つ。というか痛感させられている。ぼくが、漠然と物事を理解し続けてきたことによる顛末、ではあるんだろう。おとなになったのちは、きっと、未知のこと新たなことに出会いながら知見を深めていくことになるに違いない、といった都合のよい想像もしていたため、実際はこんなふうにやり直しに時間を使うことになるのか、と思ったりもしている(別に不満の話ではない)。効率の話をするなら、そうならないように丁寧な理解を構築し続けてこれたらよかったんだろうか、とも思うが、まあ難しいか。「適度な理解」なんて厳密には謎すぎる。

指南書や入門書を読むことで、「これってこういうことなんだ」といった"ぼんやりした認識"を手に入れたことは、多々あった。掌握できたという気持ちすら持っていた。

が、そういった「理解したやりかた」を、実際に適用しようとしたときには、行き届かない隙間が、どうしたって生まれる。徹底的な細部を持つ現実の出来事と、包括的で抽象的な理論が、そのまま噛み合うことはほとんどない。歯車の微調整が求められる。この微調整の手管が、たとえば読書では、大変つかみづらいんだろう。ほんとうにつかみづらいものなのだ、と、痛感させられる最近の日々ではあった。

ちなみに、この、「理論を学んで、現実に適用としたときには、歯車の微調整が必要になるものだ」的な注意事項のことも、わかったつもりにはなっていた。わかったぞとは思っていたが、やはり、わかっていなかった。思ったよりも何倍も足りなかった。ここも理解できていなかったんだな~と二重に思わされている。さらにここに付け加えるなら、こうして、いま、壁にぶつかって、今度こそ「足りなさ」を理解できたかのような気にもなっているわけだけど、こうした再度の理解が、適度なものかも、もちろんわからない。いつかわかるというか、どこかで答えが出るようなものでもないのだとは思うけれど。