世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年01月20日(土)ルーティーンを見つめた

だいたいおんなじ

だいたいおんなじような毎日ではある。同じようには見做せる。起きてから家を出るまでの流れも、駅までの往復の風景も、業務中の振る舞いも、ごはんを選ぶ基準も、お子さまの朝夜のお世話も、たいした差はない。もちろんしっかり見つめようと思ったら、繊細で複雑な差を見つけることはできるし、そこにフォーカスして描くのも好きなのだけど、逆に、ルーティーン的な「同じ」ところばかり選んで描写していくのも、おもしろいとは思った。気を抜くと「同じような毎日だなあ」とかって思い始めるところはあるし、逆に、油断していると「とはいえ細かく見れば千差万別だ」とかって、わざわざ嘯きたくなる(煽りたくなる)癖もある。けどまあ、適当にバランスはとっておきたい。そのあたりはかたよらせたくない気持ちがある。

同じ日々を下に見ている風情

なぜかわからんが同じような日々が続いていると認識しるとなんとなく凹んでしまう(価値がないと感じ始めてしまう)し、逆に、新鮮なイベントばっかりが続いているような日々に対しては、煌びやかだと感じ、「どうだ」と慢心し始めるような精神構造もなくはない。こういうときに、だいたいおんなじような毎日をしっかり誇れないのはなんなんでしょうね、とは考えておきたくなる。意味わからんと問い直してみたくなる。さまざまな判断軸や解釈律を同時に所有・維持できるような精神の自由度が好きではあるのだった。そうしてかたよらないように頑張りたい。ただ、関連して思ったけど、「問い直す」という行為は、どうしても、前向きにとらえてしまいがちだ。「問い直さない」のがいいよ、とは、なんか、異様に言いづらい。思いづらい。思考停止は称揚しづらいみたいである。