世界は称賛に値する

日記を書きます

2023年10月8日(日)思いつく言葉選択肢と、チーズ牛丼

日曜日

三連休の真ん中となる日曜日。平凡な日だった、静かな日だった、なんもない日だった、といった文言がまず思い浮かんだのだけど、どれも適合しないと感じられたため却下された。文脈的な流れには沿っていそう、感覚的には近いところにありそう、と言えそうな「表現の選択肢」が気づけば頭の中に浮かんで、それが精確に当てはまるものかだけを判定している、という雰囲気が執筆中にはかなりある。厳密に捉えると思考の結果を踏まえて書いているとは言えず、ランダムに出現した文言を(ニュアンス引力による乱数の偏りは見せてくれつつも)ただ選んでいるだけじゃん、と思えるところはある。ここで(この流れとこの気持ちの先で)出てきそうな言葉を出してあげましょう、というのが執筆時の頭の振る舞いではメイン機能であって、それを判定する補完的サブ機能でなんとか帳尻を合わせているのだというか。帳尻合わせられることが凄いのだという観点はもちろんあるだろうけど。 変な問いを挟めたら満足いく文章にはなるなと感じた。といま書いてみて、消した。これもなんか実状に合わなかったんだろう。当てはまらないこともあるか、そこが境界線ではなさそうだぞ、といった反論が思い浮かんでしまったんだと思う。思うがまま、気のむくまま、書いてみて、ちょっと異なる気する、と感じて消すの、なんなんだ、という視点でいまは書いている。事実と合っているかの優先順位って無駄に高い。却下されて当然とすら感じられる。しかし、必ずしもそうでなくてもよいのでは、と考えた次第だ。日記なので事実と異なることを残しても意味がないという理由と判断はあってよい(目的があるならそれを踏まえる視点はもちろんあってよいだろう)。が、それが当然視され始めると流石に違和感を覚えるんだよな〜。

「事実と異なる」のほかにも、「文脈にそぐわない」「話が飛んでいる」「ここに置かれるべき文ではない」といった理由で削除される文章もたくさんあって、それも不思議だ。なんかこう、言葉の存在理由、存在意義、存在価値などを自身に都合よくねじ曲げている気がしてくる。少なくとも、この文はここに置かない、と決めているのはあくまでぼくの自己都合だということは忘れずにいたい。偉そうに言葉の支配者ヅラしているけど単なる傲慢とワガママを押しつけているだけだからなとは自覚していたい。好き放題な基準を持ち出してきて、それを「正当なルールの遣い手」だとか見なすなよ、というか。そんなことを感じた。

ちなみに「なにもなかった日」という発想が初手で却下されたのは、いわゆるチーズ牛丼というものを初めて食べたからだ。すき家版。初めての経験は「なにもなかった」には含めづらい。その変な形式主義みたいな運用はなんなんだとも思わなくはないけれど、だからって、初体験なんて別に大したことではないとないがしろにしたいわけでもない。