世界は称賛に値する

日記を書きます

些細微細の9月16日土曜日

鹿児島2日目

鹿児島県上で迎える2日目。海がそばにある。波音は聞こえない。朝6時に流れる町内放送で目覚めた。連日流れている音だそうだ。現地のひとはもう耳が馴染んでしまって聞こえていないレベルらしかった。こういう"普通"の違いはおもしろい。言われてみれば今の住まいに引っ越したあと気になっていた水道管のがたんという音も最近聞いていないなと気づかされた。

いつもとは違う環境で書いている。珍しく鹿児島で書いている。いまは大風呂の休憩室でゆったりしている。空間が違う。文脈も違う。場所なんて関係ないはずだ、環境のことなんて思考に介在させなくてよいはずだ、と昔なら素直に考えていたかと思う。最近は認識が変わった。状態のちょっとした差異。プロセスのかすかなズレ。空間や文脈が少しの違いが、思考とその結果を大きく変質させてくる、と想像できるようにはなった。ほんのわずかな印象の動きの影響を軽く見なくなった。バタフライエフェクトくらいの可能性で眺めるようになった。というか、繊細な変動が身体感覚と無意識に対し喰らわせてくるインパクトからは逃れられないと知った。

どういった場で考えても、どういったタイミングで考えても、同じだろう、とは思えなくなったのだった。なぜか昔は安直に無視できると想像していた。あるいは、意志で遮断できたらよいなと楽観的に期待していた。その後さまざまな経験を積み、切り離すのは無理だと諦めた、というよりは、思考というものはそもそもそういうものではないようだと理解した。なにかを遮断しておこなうようなものでないと判断した。

環境が喰らわせてくる快不快。昨日からの流れが見せるわずかな健やかさや陰鬱さ、ツールのユーザーインターフェイスのほんのひとつの違いが形作るフィーリングの違い。ちょっとしたことでも進行ルートが変わる。円滑性や冗長性すら変わる。

なんてふうに書いてはみたものの、これが"鹿児島で書いたからこそ書けたもの"かと問われるなら答えには窮する。理屈はわかるけれど結局いつもと同じ頭の運びかたじゃんとは感じなくもない。しかしそもそも自分の人格や思考がいつもと大きく異なると自覚できたことは(いつどこであっても)ない。同じように見えても違うことがあると再認識しておいたほうがよいのだろう。実際、気づかず変わっていることがあったはずである。経験から多少はそこに気づけたので、些細な違いを、自覚できないくらいの差を、舐めなくなった。

体調の違いというか、頭調?脳調?思調?考調?の違い。いつもと違うと気づくのはなかなか難しい。極めて自覚しづらい。いつだって統一されていると解釈したくなるし、たいてい無意識にそうしてしまうし、おおむね統一されているかのように見えてしまう。昨日の自分が別人みたいに見えることは少ない。二分前の自分ならなおさらだろう。些細な差も甘く見なくなったよとは言いつつ、やっていそうな気もするので、あらためて認識しておきたいものだなとは思った。