痛いときはむしろひろい世界を見て
「別に全世界・全人類を見て過ごさなくてよいんだよ」「身近な誰かが認めてくれたなら、その事実とよろこびをちゃんと胸にかかえて、大切していけばいいんじゃないかな」といったことを考えた昨日の日記だったのだけど、逆にいうと、目の前の誰かしらに見下げられたり蔑まれたりしたときに、そのことばかりに意識が向くようになってしまって、異様なツラさを覚えてしまう、っていうケースだってあるんだよな~、と気づいた。そういった非難があたえてくる痛みは、広い世界を見る余裕を奪い、ツラい気持ちを余計に大きなものにさせてくる、といったイメージすらある。
もし、おおきな世界・たくさんの人々に、高く評価されるような、素晴らしいおこないをしていたのだとしても、目の前の人間の評価軸には適さず、「くだらん」と一蹴されることなんて、いくらでもありうる。そして、そういう悪評や悪意を、まっすぐ受けとめてしまい、ダメージを喰らうことも、少なくない。こういうときは、逆に、全世界・全人類とまでは言わずとも、できるだけ視野を拡げて、「目の前の人間が向けてきた評価ばかりがすべてじゃないんだぞ」と思えるくらいの余裕を持っておくべきなんだろうな、と思った。
答えを出しようがない場合
答えの出しようのない問題も、もちろんある。たとえば、仕事でいえば、会社組織の在りかた、業務の進めかた、ひとの育てかた、みたいなところにかかわる判断基準において、こうしたほうがよいやりかたになるはず、といった理屈が、たとえ、いまのぼくにあったとしても、それが正解とは限らない。まるっきりの勘違いの可能性すらある。けど、だからといって、上司や知人やらの判断基準にそぐわなかった、という理由なんかで――「そんなんじゃぜんぜんダメ」と権威者に鼻であしらわれた経験なんかで、安易に否定できるものでもない。ほかの空間に適用してみたらうまくいくかもしれない。割合でいえばいろんな場所を幸せにする効果すらあるかもしれない。それに、今後の世界や人類の歩みのうえで、どういったあつかいになっていくかなんて、どうせ予測できない。そこは、まあ、突きつめるなら、信じるしかないんだと思う。
楽観は混じるにせよ、結局ぼくらは、ある程度、「信じる」「期待する」のレイヤー上で、自分勝手に決めつけながら、生きて死んでいくしかないのだ、と最近は感じている。会得した世界観や価値観のもとで、こうに違いないと経験からの判断をくだし、暫定的な理想をもって、そのあとは、試行錯誤を重ねていくしかない。人類の発展とか進歩ってそういうものの積み重ねなんだよなと思う。