副詞に逃げる
最近読んだ「副詞に逃げる」の話が印象深かった。少しだけ気にしながら文章を書いている。まあでも、少しだ。具体的に書こう、客観的に書こう、デジタルに書こう、といった指針であることはわかるし、そのやりかたを薦めようとする気持ちも効果もわかる。適する状況も想像できる。が、それがすべてではないだろう。そのやりかたが"常によい"わけでもないと思う。場合によるというか状況によるというか、抽象にだって漠然にだって"よさ"はあるはずだとは思う。 というかそもそも、身体、感覚、状態、あるいは、世界とか自然って、"切り分けない"側に属するものだろう、って思った。「アナログ」で「グラデーション」のほうが本来的で基本的のはずである。人間の頭脳的には"切り分ける"のが似合う(わかりやすくて、"よく"見える)のかもしれないけれど、だからってそちらにばかり寄せていくのは違う。
勝手気ままと正当化
ビジネスの場だと、たぶん「副詞に逃げない」ほうが好まれる。が、日記という場なら「副詞に逃げ」ても、まあ許容されるだろう。なんてふうに思って、そのことを根拠に、だから日記って素敵だよね~とか言い出しそうで怖い、ということも併せて思った。「好き」と、「ゆるさ・甘え・自由」って、相性がよすぎるというか、組み合わせたときに、正当化"しやすすぎる"。あるふたつの極があって、なんとなく一方を好ましく感じており、しかも、好ましい側に「なんでもよいと言ってくれそうな、ゆるい」空気があるときに、それを用いて正当化できないわけがないよなあ、って感じる。「ゆるさ」ってかなり制御しないとどうしても前向きに捉えちゃうというか。捉えさせられちゃうというか。前向きっぽい雰囲気のものとしてことばに組みこむのが簡単すぎるというか。好きと絡むとそれがより顕著になるというか。このあたりちょっとズルくない?と思った。