世界は称賛に値する

日記を書きます

粗出し疑問文3/20月

『哲学入門』戸田山和久/ちくま新書

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たとえばあなたは、何だか気に入らないというだけの理由でよってたかって暴力をふるわれたりする、といったことは自分の人生に起こらない、と思って暮らしている。かりにそういうことがあったら、裁判にでも訴えて闘えると思っている。というか、自分はそのような理不尽な暴力にさらされるいわれはない、という考えをそもそも抱くことができる。これは何のおかげか。誰かによってつくられた「生存権」とか「人権」といった概念が、それに価値を見出した人々によってリレーされ、あなたの手許に届いたからだ。概念はしばしば所与なので、自然なモノだと思いがちだが、じつは設計者のいる人工物だ。

その概念づくりの作業が行われなかったら、リレーがどこかで途絶えていたら、あなたの生活はいまほど幸せではなかったはずだし、じっさい、まだそれらの概念の恩恵をこうむることができない人々が世界のあちこちにいる。

概念は、テクノロジーと同じくらい生存にかかわりをもつ。だとしたら、人類の生存に資するよい概念を案出したり、既存の概念を改訂したりする技術、つまり概念工学が必要だ。で、哲学のキモは概念工学にあり、というのが私の結論だ。

もちろん、概念づくりに携わるのは職業的哲学者に限られない。それぞれの分野と現場で概念はたえず生み出され改訂されている。ただ、哲学者は概念いじりの訓練を受けてきたので、ちょっとばかりその作業が上手になっているはずだ。だから、哲学者は外部にフィールドをもち、そこで協働するのがよい。というわけで私は他分野と地続きの応用哲学を奉ずる。

テクノロジーと同様に概念も暴走して災厄をもたらす。迂闊に概念を「深め」たり「拡大」するとそうなりがちだ。日本人の誇りとか、革命の大義とか、国家の品格とか、人生の意味だとか……。理性や自由もそうかも(このへん、私いささかポストモダン)。そこで私の概念工学はミニマリストになる。悪さをしそうな概念を、科学的知見と両立可能なものに切り詰め、そのしょぼい概念でも生きていくのに十分でっせと、そっと差し出す。つまり、環境に優しい省エネ概念だ。

ミニマリスト概念工学としての哲学|ちくま新書|戸田山 和久|webちくま (webchikuma.jp)

戸田山和久の著書『哲学入門』を読み終えた。非常によかった。物理主義・自然主義・唯物論といった「モノだけ世界観」のもとで、意味・機能・情報・表象・目的・自由・道徳・人生の意味といったものたちを「ありそでなさそでやっぱりあるもの」と呼び、それらを成立させるため、さまざまな例をこねくり回してわずかな隙間に針を通そうとしていく試みに、とてもワクワクドキドキさせられた。「意味」とか「情報」を、「心」とか「主観」に頼らないで出現させる手際に感心しきりであった。

歴史上の有名な哲学者に話を寄せず、現代的で先端的な哲学者の知見を軸にしてくれていたところも素敵だったし、これだけ軽妙な語り口を採用しておきつつ、論理の積み上げは丁寧なところにも衝撃を受けた。非常に楽しい読書であった。

ゆっくり読む

『哲学入門』を読んでいるとき、途中で、読解速度をかなり遅くした。話が追えなくなっていった。一文一文から読み取れる意味と論理をかなり真剣に追っていかないと厳しい読書になるなと気がついた。最近こういうふうに丹念に読むことを忘れていたな~という反省も思った。バシバシ読み進めて先入観で論旨を勝手に決めつけるような読解が多くなってしまっていたかと思う。

読んだつもりになっているけど実はまったく読めていなかった、というのは、前に、『わかったつもり』(西林克彦/光文社新書)を読んだとき、冒頭部で"読み飛ばしたひとがするであろう理解"の例が挙げられていて、見事に当てはまったので(そして大きな衝撃とダメージを受けたので)、できればやりたくないものだ、とは思っている。

けど油断するとやはりやってしまっているんだよな~、とあらためて反省した。特にWEB記事なんかは軽佻浮薄なスタンスでかなりバシバシ読み進めてしまっているところがある。ライトノベルとかもそういう傾向あるだろうし。むむむだ。