世界は称賛に値する

日記を書きます

ドラえもんが響いた4/8土

水谷わさび氏のドラえもん

ドラえもんの声優が大山のぶ代氏から水谷わさび氏へ代替わりしたときに、どこかで見かけた、「アニメ版に"上書き"されて、ドラえもんといえばすっかり大山のぶ代氏の声を想像するようになっていたけれど、初めてアニメのドラえもんを観るまで、つまり、まんが版のドラえもんだけを見ていたときに想像していたドラえもんの"声"って、こういう声(水谷わさび氏の声)だった気がする」というコメントを、今でも憶えている。言われてみればたしかにそんな気がしたのだった。少なくとも、最初に大山のぶ代の声を聞いたとき、想像通りの声だとは思わなかった気がする(非常に幼かったはずなので実際にあった記憶かどうかはだいぶあやしいが)。

想像と違う声

アニメ化などで声優が定まったときに起こる"想像していた声とイメージが違う"問題。経験上、どうせ聞いているうちに慣れていってしまう問題ではあるのだけど――そうして以前のイメージは消え去ってしまうのだけど、ここで起こる"上書き"って、実のところ、なんとなく好きではない。避けたいとかもったいないとか思ってしまうフシがある。原作を読んでいるときに思い浮かべられていた「声のイメージ」を、わりと好んでいて、ほのかに大切にしているんだろうなと思う。一度"上書き"されたら、ほんとうに、ビックリするくらい思い出せなくなってしまうし。

僕の心のヤバイやつ

『僕の心のヤバイやつ』のアニメ化を見ていて、同じようなことを思った。主人公の市川京太郎の声を聞いて、なんだかイメージと違う声だ、と感じたし、うーん、この声にそのうち上書きされちゃうんだよな~、と残念に思った。

ちょっとした方向性の違い

声優が付くことに対する不満みたいに書いてしまったけれど、実際は、違和感なんてまったく感じないくらいイメージに合っていてなにも思わないことのほうが多いし、むしろ逆に、ぜんぜんイメージと違った場合も、それはそれで受け容れられたりする。想像と少しだけズレていた場合というか、「そっちのほうに行ったか~」と言いたくなるような、選択肢としてそちらのほうへ行く案があるのも想像はできるのだけど、ぼくの想像はそちらじゃなかったんだよな~、みたいなパターンの妙なズレがあったときなんかに、強く感じてしまう形だ。

いろいろな世界が同じ声で塗り固められていく

声優の人気ってけっこう偏りが大きくて、同じ声優ばかり見かける印象がある、というところも"残念さ"を感じる理由があるかなとは思う。なんというか、自分の好きな作品が次から次へとアニメ化されていき、一部の人気ある"声"ばっかりに染められていったら、嫌だな、とは感じるからだ。あれもこれもといろいろな物語世界が同じ声で塗り替えられてしまったら嫌だなとは考える。というか、この作品のこのキャラクターとあの作品のあのキャラクターは同じ声だよね、って、そもそも別に思いたくない、みたいな気持ちもあるし(物語の外部をわざわざ見せつけないでほしい、的な話)(これとは別に、声優という存在や技術のおもしろさの話もあるので、認識調整が難しいのだけど)