世界は称賛に値する

日記を書きます

取次ぐ感受性3/31金

不満は難しい(再)

職場や仕事の不満を書くのは難しい(数日前にも同じことを書いたけど、まだその考えの塊が頭の中に残っているので、なんかまた書いた)。視野が狭いのは避けたいというか、おのれの気分だけを優先したワガママを言いたいわけではないというか、なにが重要でなにが必要かわかっていないのに文句言えるかなという怖さがあるというか、つまり、"あったほうがよいであろうもの"に対する近視眼的な毛嫌いだけで、糾弾しようとしてしまっている可能性を考えてしまって、難しいなと思う。ほどよいストレスや厳格さなんかも時にはそういう「あったほうがよいもの」だったりするのだろうけど(ないほうがよいような過度なものも当然あるだろうけど)、でも、そういったものによってダメージを負わされることがあったときに、耐えきれず、脊髄反射的にぎゃんぎゃんわめいているパターンなんかもありうるだろうし。そんな事態を想像してしまって書きづらくなる。

頻度低め・割合薄め

やや似たようなところだけど、挙げようとした不満が、たまにあるくらいの事例である場合も、書きづらい感じがあるな~。日常的に頻出している不満の要因なのであれば、いやだ~!!!と騒ぐことの正当性もそれなりに謳いやすい(と思える)けれど、たま~にあるかな~くらいの割合少なめの不満要素に目を向けて、いやだ~!!!と騒ぎ立て続けることに対しては、流石に気が引けてしまうというか、ちょっと気にしすぎなんじゃないのとツッコミたくなってしまうところがある。普段はほぼほぼ丁寧に話を聞いてくれる人が、今日はちょっと虫の居所が悪かったのかひどく陰険な対応だった、いやなかんじ!!!って言っていいのかどうかだ。言いづらいよね~とは感じる。頻度低め・割合薄めの不満って強くは押し出しづらい~、弱~って思われそうだし~、みたいな状態である。

とはいえ書くのはよさげ

けどまあ書いとくかあ、とは思った。書いてよいはずだろうと決めておこうと思った。こうした日記が持つシンプルな効果として改めて実感したけれど、書いて整理するのって、なんかかなりよい。よいことばかりとすら言いたいくらいいろいろなよさに満ちている。なので、視野狭窄的で近視眼的で一時的なことでも、書かない理由ってなさそう、と思った。書かない理由はないと決めているくらいがよさそうである(言語化する良さの再認識の話であって、プライベートを赤裸々に書いて身バレすら辞さないとかそういう社会的なリスクとは別の話)。

言うだけ言うのもよさげ

そしてまあ、それが組織的あるいはビジネス的に極めて不可欠なものであってもそれによりダメージを負ったのなら(文句言ってしまうとその"不可欠なもの"まで言及の対象になるとしても)「きらいだー」って言ってよいし、普段はぜんぜん問題のないところにたまに発生する"嫌さ"に対してでも(まるで問題のない日常までターゲットに含まれてしまうとしても)「きらいだー」って言ってよい。別によいんじゃないかな~。ほんとうに消し去るわけじゃなし、"言う"だけくらい許されたい。ほんとうに消し去ろうとするわけでもないし。といった見解は、人生の基本ルールとして定めておいてもよいんじゃないだろうか。つらいときには攻撃範囲がはみ出てしまっても「嫌だ」「消えろ」と言ってもよいよというルール。重要だから、稀だから、とかいって言葉を圧殺するよりは、まあよさそう。