世界は称賛に値する

日記を書きます

1月11日ジャンピング

日々

温湿度計の無線が途切れていて記録が途絶えていたので設定し直した。加湿器のフィルター交換も怠っていたのでクエン酸に浸して簡単に掃除した。帰ってきてからやや慌ただしかったと言える。夕飯はカレーだった。残りを明日も食べる。玄関の鍵を開けようと準備しているときに文章の書きかたについて悶々としていたことを急に思い出した。ので記述した。なんとはなしにではあるものの、数日前の日記に書いたボードゲームの感想に対する不満がくすぶっている。うまく書けなかったぞという思いが悶々としている。そのあたりに対するもやもやが思考を駆動させていた。苛立っている人格が存在していて、いまからまた書き直してやろうかなとすら思った。それくらいうまくできなかった手触りが残っているのだった。書き上げたあとに何度か手直しもしたがダメだった。書いている当初から、なんでこんな通り一遍のことしか書けないんだろうと思いながら書き進めてはいた。「通り一遍」という言葉をいま書いてみて、なにが通り一遍だよ、そもそも通り一遍ってなんだよ、とも思い始めたのだけど、思い立って辞書的な意味を調べてみたら、「皮相的」という言い換えが出てきて、おお、そうそうなるほど、と思った。そうそう皮相的だったよな~と気づけた。皮相的なこと、つまり表面的なことばかり書いていたと認識した。言葉通りだが、表面的な情報、つまり。誰でもわかるような情報ばかり、書いていたと思う。そんなふうに言うのであれば、「誰でもわかる情報"ではない"ものってなんだよ」とも思った。うーん、難しいけど、深い意味とか浅い話とかいうときの深い浅いがイメージしやすくはあるかなあ。深い意味とか安易に言ってしまうのもすきではないけれど、それでも、「誰でも簡単にアクセスできる」という意味での、手の出しやすさは、情報ごとにやはりある。逆に考えて、手を出しにくい、見つけにくい、情報も、当然ある。個人の気持ちなんかがまずそれだろうし(そのひと自身にしかほとんどアクセスできない)、繊細な気持ちや裏腹な気持ちといった難度なんかもそこに関係してくる(それが持つつかみにくさも関係する)。これらは「よりアクセスしにくい」ものだと言えるだろう。こういったアクセスしやすさを基準にして「皮相的じゃない」「表面的じゃない」ということを判定するやり口は、まあある。つまりくすぶっている不満は、ボードゲームの良さを、もっと、誰でもアクセスできるものではない言葉や気持ちを使って、書き上げたかった、のだと思う。合っているかわからないけどこういう方向性で今後挑戦していってみるのはアリだろう。皮相的表層的になりそうだったらこういうふうに対策しよう、という作戦はあってよい。

あとぜんぜん関係ないけど(ちょっとあるけど)(自分の頭の中では近い位置にある思考だが、シンプルな論理や因果で見たときの繋がりは薄い、ので、関係があるって言いづらい……、でもしかし個人的には明らかに関係してるんですよね、みたいな、個人における関係あるなしの距離感の問題、あったりするよねと思った)、読み手のことを考えて、読みやすい言い回しを選ぶ、というのを最近はまあまあ意識しているが、ここに専念していると、「ややこし言い回し」と「聞きやす言い回し」が並んだときに、ほぼほぼ自動で後者を選ぶこととなり、前者の言い回しとはおさらばする羽目になる。が、正直なところ使い慣れない/聞き慣れない文字列とも仲良くはしておきたいんだよな~(そういう思想であったことを最近はすっかり忘れていたが)。難解で濃厚で目が滑るような単語も是非とも消えないでほしいし、そのためには、普段使いされていたほうがよい(見向きもされなくても。読みづらくても)。基本的には死語という概念は好きじゃない。絶滅保護的な観点で死語も保護したい。ひさしぶりに湧き上がるままに言葉を書いた。気持ちよかった。