世界は称賛に値する

日記を書きます

読み手のことを考える

 書きはじめるとものすごく楽しくなってしまって、読み手のことはあんまり考えなくなる、ような書き方を最近はしていると思う。してしまってるなー、と感じる。実際、読み手の頭の中でどういう意味内容が構築されるか、みたいなことは、ほとんど意識しなくなっている。というか、意識する書き方が以前の書き方であり、それをうまいこと打破しようとしているのだから、あるいは乗り越えようとしているのだから、意識しなくなるのは妥当な線のはずなのだけど、えーと、まあ、たぶん、こんなに考えなくなるはずじゃなかったのに、というようなことを思っているのではないかな。
 読み手のことを考えるかどうか、っていう文言や指針を見かけることは非常に多い。経験談で言うなら、それはもう確かに滅茶苦茶大事なことであって、考えてるのと考えてないのじゃ全然違うものが出来上がるという判断があるのだけど、文章を書く時に、読み手のこと、読み手の意識、読み手の思考の動き、を考えるかどうか、っていうのと、読み手について語りかけるように書く、というのは、結構違う現象だったりするし、何より、文章を書く時だけ読み手のことを考える(普段の生活の中ではあんまりそれをしない)っていうのは、非常に難しそうな気がするので、読み手のことを考える、ってことを為そうとするなら、それは、普段の生活態度、あるいは、世界観の問題にすらなってくるんじゃないかと思うわけで、文章術の領域かなー、というようなことは思う。いや、もちろん矯正はできると思う。思うけど……。まあ、矯正をどこから始めるか、どこに基点、あるいは起点を置くか、って話になるのかな。このあたりの話は。
 読み直して自分が「おお、おもしろいぜー」って思ったら、わりと誰かにとってはおもしろいものなんじゃないかなあ、っていう経験則もあったりはする。ただ、その「誰か」が多数であるかどうかはわからないし、むしろ多数でないことのほうが多いと思う。それはつまり、多数に好かれるには、単純一途に自分の好みだけで書かないことが原則であり単純一途な好みだけで書くと、それなりに好かれるだろうけどほぼ「それなり」で終わるんじゃないかな、みたいな判断のことを言っていることになりそうなのだが、そしてこれを書きながら、ほんとうかなあ? とちょっと思ったけど、思ったまま、とりあえずは書き残しておく。仮説としては嫌いではない。検証はちょっとずつしていこう(しなそうだ)。うーん、でも、単純一途に好きなように書いて多数に受け入れられる人間なんて、いるのかね? いやいますよね……。人間の可能性の広さを舐めては駄目だ。
 関係ないけど、連想だけど、読み手のことを考えることがすごくうまい人、と、読み手のことを考えなくても読み手のことを考えたものが造れちゃうような人、では、どちらが──えーと、どちらが幸せだろう、という疑問文が浮かんだのだがそんなところで幸せは決まらないのでは? と思ったので変えよう。では、どちらになりたいだろうか? いや、これも違うなー。楽しそうな、美味しそうな問いではない。えーと、じゃあ、それを両立した人間になるにはどうしたらいいだろう? という問いかな。これが考えていて一番楽しそうな問いかな。贅沢な問いである上、元々の問題点をすっ飛ばしてしまっているけれど、理想形な在り方を模索してみて、そのあたりの近所にでも向かえないか考えるあたりがとても好きなので、まあ考えてみよう、と思った。