世界は称賛に値する

日記を書きます

考え済みの思考内容、使い古された思考パターン

 すでに考え済みのことならすらすら書けるなあ、って最初は思ったけど、すでに考え済みのこと、っていうのが、改めて考えてたら、よくわからなくなったので、たらたら書こうと思った。すでに考え済みのことなんてあるのだろうか、みたいな問いが浮かんだのだった。が、まあ、あるよなあ、とすぐ考え直した(よくある右往左往だ)。整理できていること、答えが出せていること、っていうのは、ある。間違いなくある。当然ある。疑問に思えてしまうのは、別の視点を持ち込めば問いかけなんていくらでもできそうだからであり、捏造も嵩上げもできそうだからで、要するに、整理して答えが出せたとしてもそれじゃ全然終わりではないのだから、そんな終わったような顔してていいのかい、とか思っているんだろう。という整理すらよくわからないしなー、って思った。ここですら答えと見せ掛けて答えじゃないように思う、ことなんて簡単だ。
 答えを出したよ、って気分が「終わり」だと思えないのは、答えを出しているつもりになっていても、全然駄目じゃないか何考えてんだ俺はー、ってあとから思えてきた経験がいくらでもあるからだろう。新しい視点を知って、あるいは、別の情報や失敗談を聞いて、いやあここが見えてなかったのだなー、って思えたことなんて無数にある。反省して更新してよりよくできたことだって沢山ある。ということが、まあ、世界観の基礎に組み込まれてしまっているから、答えを出せたー、っていう判断程度じゃ、だからオッケー、これでオッケー、と思うには至らない、ような印象になっているのだ。という感じの考え方は、まあ、わりといい感じの考え方なんじゃないかな、とは思っているんだけど、どこまで行きたいのか、どうなりたいのか、よくわからないなあ、というのも同時に思う。どうにもならないで動き続けたい──問い続けたいだけなのかもしれないなあ、って思うのだ。問うて、答える、考えて、仮説を提出して、検証していく、みたいなことは、楽しいことだからだ。とても楽しいと思っている。死にたくないと思う理由の一つがそれだ、とすら言える。
 思考もパターン化されてしまっているな、と思うことはかなり多いなー。同じような思考をしている、というよりは、同じような形の思考によって整理や答えに向かおうとする癖が明らかについてしまっていて、思った以上に、油断するとすぐそれをなぞろうとするのだ。過去の真似をしようとしてしまう。
 過去の成功経験を活かす、っていうのは、全然否定できない「よい行為」であるとは思うんだけど、まあ、未来は常に未知であり、過去と同じやりかたを踏襲しててもオッケーかどうかは不明なんだから、いつだって違うやり方も用意しとけよー、みたいな考え方だってありだとは思うし、結局、普段の心構えがどうあるべきなのかはわからない。盲信しないで、いつだって問い直す準備はできていて、っていうのがいいのはもちろんわかるけど、抽象的過ぎて実際の扱いは難しくなっちゃうし、何より誰かに伝えるのは滅茶苦茶難しい。だからこういう抽象的な指針じゃなくて、実際問題、脳裡のどういう「問い直しの言葉」を置いとけばいいのか、ってことは考えたい。聞かれたときに答えるのが難しい、ような、理解を用意してても駄目なんじゃないかな、って観点くらいは用意できる。伝えたりアドバイスしたりするのは難しいものだなあ。
 既存の考え方を壊すのは楽しい、っていうのもある。そうやっていろいろ変えることで、伸びてきた、成長してきた、ような気分は、とても強くあるからだ。変えることで伸びることができるよ! という経験則は育んでしまったと思う。だから既存の考え方を壊してくれるものを求めている、というのはあるな。本を読むのが好きな理由の何割かはそれだろう。人の話を聴くのが好きなのも同じだ。ブログを読むのが好きなのも、哲学が好きなのもそれに類するだろう。あるいは、誰かにものすごく否定されたいと思うことが多いのも、同様の欲求に因るものだと思う。
 本当は、すごく間違ったことばっかりやっているといいな、と思っていたりするのだ。いや、そこまでは思ってないか……。そこまで言うと明らかに誇張表現だし、そのせいで少しゆがんだ意味合いになっちゃってるから、考え直すけど、んー、なんていうか、誰かに否定される可能性がある、ってことが、嬉しいのは、はっきりあるのだ。それがあるとよいな、とぼんやり思うことはすごく多い。否定されて、納得して、それはつまり、次の段階に気づけるってことだから、それが欲しいなあ、って思う。他力本願な成長願望であることは否定しないので、そこをメインは据えたくないけど、でももしも、万が一、そういうことが起こりうるなら、がっつり否定されるようなことがあって、けど、わあ今までのやり方はすごく間違ってて本当はこうなのか! みたいなことが起こりうるなら、それはとても嬉しいことだ、と認識しているのだ。
 どこかに世界の答えがあるみたいな話になりそうになったので、ちょっとやり直したくなったけど、ここまで考えた記録として、刻印的文章としておいて、書き残そうと思った。もちろん、ただ、自分の限界がここにあるってだけの話なのかもしれないのだが、そういう話はまた別に考えよう。混ぜると危険だ。