世界は称賛に値する

日記を書きます

成功者の話

 感想文を書けないなら目次を見ればいいじゃない、と脳内マリー・アントワネットさんが言いましたが、言わせましたが、言ってる意味はわからない。いや、意味はわかるが別にマリーさんに言わせるようなことではない。ただ「じゃない」が言いたかっただけのように思われる。
 思われるって言葉を書くたびに、なぜか受け身形……、と頭の中で思ってしまう。主語不明な受動態で書くことによる日本語の曖昧表現でありますなあ、とか思ってしまう。ので、書くのやめようかな、って思うことも多いのだけど(批難的文脈で聞きがちな書き方であり、曖昧にしたいわけでも批難を呼びたいわけもないので)、ただ、この言葉の見せるニュアンスが、わりとなんとなく好きなので使ってしまう。曖昧なニュアンスのことじゃなくて、ちょっと真面目な感じっていうか、判断を厳密に行なおうとする感じ? 断言できないことだけど書きたいからこう書いておきます的きまじめさ? って、ここまで書いて思ったけど、思われるは別に「受動」ではなくて「自発」なのだよなー。たぶん。自動的に思っちゃうよ的な奴のはず。それは受動と何が違うんだー、意図の曖昧さを見せる意味では一緒でしょ、と問われたら微妙なところではありますが……。
 ユニクロの会長である柳井さんが、なんとなくビジネス書界隈で流行ったことがあったように思う。いや今も流行っているのかもしれないが、なんかとにかく、ユニクロが突然フィーチャリングされて、本がいっぱい出た。出てるのを見ていた。えーと、ちょっと気になってはいた。
 成功者の話はわりと聴きたくなる、時期もある。なんだろ。参考になるとか思ってるのかな? でも人格は人それぞれだし成功者ってやっぱり特別なんだから成功者の話なんて聞いたって参考になるわけが……、みたいな定型文を考え始めたのだけど、まるっきり嘘なので、やめる。参考になるに決まってるじゃん、と脳内が言っております。正確に言うなら、参考にできるに決まってるじゃん、あたりかなあ。
 どんな情報だって役立たせられるかどうかは人による。だから、つまり、自分ならできます。みたいなことだ。偉そうである。しかし、偉そうでないとできない頑張りややり方があって、それがしたいぜ、と判断できているのなら、まあ、偉そうでもいいかなー、あえて偉そうにいってしまえー、なんていうようなことは、思うようになった。自虐や自嘲、自重ばっかりでもしょうがないかな、とか思う。遠慮も「遠慮ばっかしてりゃいい」って思ってたら駄目なんだよ、とか。まあこれも「思うようになった」のかなー。昔どうだったかはあんまり憶えていない。なんて言っちゃう程度には、そこそこ偉そうな心持ちを昔から持っていたようにも思う。このあたりは正直あんまり書いてて嬉しい話じゃないんだけど、それで救われたところもあれば、もしかしたら、誰かの役に立てたことさえあるかもしれない。ので、駄目出しばかりしてても駄目か。駄目要素が有益だった可能性を考えないのも、まあ片手落ちであるしなー。
 成功者(成功者って言葉は定義が曖昧すぎて全然好きじゃない感じなのであえて使っている)の話は、役に立たない、みたいな判断や話を聞くことがあるけど──自分だってそういう判断を持つことも(気分によっては)あるんだけど、素直に考えたら、そんなわけない。うまくいった話を聞いて何も得られないってどういうことやねん、と思う。実際の経験から言っても、わりと役に立ててきたって思えるし、いや確かにそのままコピーしてもしょうがないんだけど、それはつまり、そのままコピーしなければ結構いいもんだよね、って話でもあると思う。
 自分なりにアレンジ、って言葉があるが、まあそれができるなら、どんな話だって結構役に立つ。成功譚とかの「よい話」はどうしたって「良さ」を内包してるはずなので、話を聞いてその「良さ」が理解できるならば、あとは、自分がその「良さ」に向かうにはどうすればいいかなー、その人はその「良さ」に辿り着くためにこういうやり方をとったみたいだけど、自分ならどうかなー、その人のやり方は参考にはなるかなー、みたいなことを考えればいいんでしょ、って思うのだ。それしかないし、それでいいんだと思う。
 あとは、普通に、具体的な話って有益だ。世界にありうるであろう諸々の障壁を少なくとも一度は突破してる、って条件があるのは、かなりの素敵ポイントである。そういう障壁って「思っている以上」に沢山あって、つまり「思っている以上」なわけだから、脳内シミュレートだと見落とされがちなのである。
 というわけで、ユニクロの柳井さんが、父親から紳士服屋を継いで、頭を使っていろいろと転向して、何を売ろうと考え、何が売れるか考え、何をどう交渉し、何を作ろうと思い、誰に協力を仰ぎ、何を目指し、何にぶつかり、何を乗り越えてきたか、みたいな話は、非常に有益だった。思った以上に楽しめたと思う。後半の「これからどうしていきたいか」みたいな理想の話は、好きだけど、ここは役に立ったとかではないかなー。まあ燃料になる言葉ではあったので、気分面ではよいものだったけど。
 フリースがすごく盛り上がった時に何をしてたか。安さと良さを両立させるためにどれだけいろいろやったか。
 CF作成のときにジョン・ジェイ氏がどういう指針で広告を作ったか。広告で本当に大事なのは何か(と考えているか)。
 スポクロ、ファミクロ、VM社の子会社化など、結構いろいろやらかしてるっぽいけど、それをどうこなしたか、あるいは、そこからどう今に繋げたか(失敗したけど学びは多くいいところは活かしたよ、と言える今に持っていったか)
 よい商品を作ったことに酔うのではなく、それをいかに売っていくか、という面でもいろいろ考えたこと。売場をどう回すか的な。
 それまで二九店舗しかなかった会社が、年間三〇店舗出店して、三年後に百店舗を超えます、と宣言したときに、どう計画を立てて、いかに成功させたか。
 なんてあたりの話がとても参考になった。こういうやり方をすると成功する(成功した人がいる)のだな、という感じか。ちょっとずれるけどまあそんなところだろう。別に真似すればいいわけじゃないのは知っている。でも、その話を、自分の頭で処理したり整理したりすると、必須っぽかった要素が垣間見えてくるので、あとは、そこを基準にしたり核にしたり指針にしたりバロメーターや物差しにしたりしつつ、自分で──自分が、考えればいいんだろう。見誤ったらそれはそれだ。見誤っていることなんていつだってありうるので、ここだけ特筆して語ってもしょうがない。見誤っていることを前提にする慎重の話は、もっと根源的なところでしておいて、対策しておくべきことだ。
 いやあ、しかし、それまで二九店舗で運営してた会社を持ってて、持っている時に、よし! これから年間三十店舗ずつ増やしていこう! じゃないと駄目だ! って自分に思えるかなー。今は駄目そうだ。でも、思えるような精神が、ある程度理解できて、時には実際に運営さえできるような、可能性が、あるとよいなあ、って思う。別にそれが理想とかやりたいこととかってわけじゃないのだけど、えーと、なんていうか、それが理想とされる場面に遭遇する可能性はあるし、その時にそれを思えないのは、ちょっとやだなあ、と思ったのだった。あと、楽しそうな心持ちのような気もするのだよな。それが思えるような世界観、判断軸が、なんとなく、楽しそうだ。いやあくまで予感だけど、予感による「楽しそうかなこのあたりが」に向かうのは、向かうのが、まあ、アリでしょう、って考えていた。

一勝九敗 (新潮文庫)

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